概要
日本史では公家や寺社等の所領のことであり、天皇をはじめとする皇族もみずから「荘園」を管理していた。
公家や寺社は自らの私有地として荘園を管理していたが、それは後の時代に出現する守護大名のように一国を与えられたり、戦国大名のように国を切り取るものではない。ごく限られた地域(村落)を開発した開発領主と呼ばれる豪族や有力農民が、領家と呼ばれる下級貴族や有力寺社に寄進して税の一部を上納し、代わりに保護を求める。これら領家はさらに本家と呼ばれる摂関家や皇族に寄進して税の一部を上納し、代わりに保護を求めた。こうして摂関家や治天の君たちは膨大な荘園を保有したがその実態は全国各地に分散した無数の開発領主の私有農地の集まりであった。
京の都で権力を握る有力貴族たちは都から離れることをいやがり家人や出世の見込みのない下級貴族を現地に派遣、徴税をまかせることになるが、当然、朝廷の威光の届かない現地は治安が悪いことから、彼らはみずから武力をもっていくことになり、それが武家や武士の発生原因となる。
時代が変わっていくうち、武家や武士のなかに荘園の収入を着服するものが出て、平氏や源氏のように朝廷内に発言権を持つ武家に出るようになる。
平清盛の時代、朝廷は(結果として)平家を公家に取り込むことになっていくが、平家は朝廷内や武士の支持を次第に失い、元暦2年(1185年)、滅亡するに̪至った。
鎌倉時代、朝廷は当初、鎌倉幕府と対等な勢力を保っていたが、承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が幕府打倒の乱を起こして敗れると、幕府は六波羅探題を設置して、朝廷を監視していくことになった(承久の乱)。
元弘3年・正慶2年に鎌倉幕府が後醍醐天皇の命により滅亡すると、天皇は従っていた貴族や寺社家の荘園を回復、しかし、それは幕府打倒に働いた武家や武士の不満を買うこととなった。
それらの不満を受けて、建武2年(1335年)、得宗・北条高時の次男・時行は鎌倉幕府残党を糾合、3万の兵を集め朝廷に対する乱を起こす(中先代の乱)。
乱は足利尊氏・直義兄弟の活躍により鎮圧されるが、兄弟はこれを契機として朝廷と離反し北条氏に擁立されていた光厳上皇の弟・豊仁親王を新たな天皇(光明天皇)に擁立、ここに北朝と南朝の対立がはじまる。
これ以降、南朝方についた貴族の荘園は北朝方についた武士の恩賞となり、室町幕府の樹立とともに朝廷・公家の衰退は明らかなものとなっていく。
しまいには豊臣秀吉が行った太閤検地によって、荘園そのものが消滅していった。
江戸時代になると江戸幕府は「禁中並公家諸法度]を発布して朝廷の監視を行うとともに、貴族たちは幕府からわずかな所領を与えられることとなった。