上野恩賜公園
うえのおんしこうえん
概要
上野恩賜公園は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。
総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。
公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。
高台となっている忍ヶ岡は、近世からの桜の名所としても有名であり、日本さくら名所100選に選定されている。桜の開花時期になると大勢の花見客が押し寄せることで有名である。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池は、夏には池の一部を覆い尽くすほどの蓮に覆われ、一面の緑の葉と桃色の蓮の花が美しい。冬には鴨をはじめとした数多くの種類の水鳥が飛来し、とても賑やかになる。
歴史
寛永二年(1625年)、天海僧正は徳川家の安泰と江戸城鎮護のために、江戸城の鬼門にあたるこの地に寛永寺を創建した。
寛永寺建立から数十年が経つと、寛永寺境内(今の国立博物館前の噴水のあるあたり)から始まった桜の植樹が山全体に広がり、一般の人々にとっての花見の名所となった。本格的に花見客で賑わい始めたのは寛文年間(1661-73)からだといわれている。元禄時代(1688-1704)には花見の客で大変な賑わいを呈したが、寛永寺のお膝元であったために、音曲、飲食が禁止されていた。
慶応四年(1868)に起こった上野戦争で上野の山が戦場になり、山全体が一部の建物を残し、多くが消失した。戦争の終わった年に寛永寺境内は一時立ち入り禁止にされたが、すぐ翌年には花見のために開放されている。この後は、多くの建物が焼け落ちた空き地に、花見茶屋が作られ、増えていく。音曲、飲食の禁は解けていき、他の花見の場所と同じように親しまれていった。
明治維新後、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。ところが、ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードウィンが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ。と進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。
公園に指定されると、荒れた山も整備され、明治10年(1976)には天皇も出席して盛大な開園式が行われた。
沿革
- 1868年7月4日 上野戦争により寛永寺伽藍の大部分を焼失
- 1873年5月 太政官達により東京府公園に指定
- 1876年5月 公園建設完成、開園
- 1876年 園内に新聞縦覧所、自働体重計(自動販売機の日本最古の記録)が設置される
- 1877年 寛永寺本坊跡地にて第1回内国勧業博覧会を開催
- 1881年 第2回内国勧業博覧会を開催、閉会後に博物館が使用する前提で煉瓦造の建物を建設
- 1882年3月20日 国立博物館および付属動物園が開館
- 1890年 帝室御料地となり宮内省の管轄に置かれる
- 1924年 宮内省から東京市に払い下げられ、この経緯から「上野恩賜公園」という名称となった
- 1933年 京成本線日暮里駅 - 京成上野駅間に博物館動物園駅が開業
- 1973年 公園指定100周年を記念して、ボードウィン博士の銅像を建立。ただし、顔がボードウィン博士の弟のものに取り違えられていた
- 1997年 博物館動物園駅営業休止
- 2004年 博物館動物園駅廃止
- 2006年 ボードウィン博士の銅像の(正しい顔への)建て替えが行われる
- 2012年 「上野恩賜公園再生整備事業」における「竹の台・文化施設エリア」の再整備工事(噴水・オープンカフェ・園路の再整備と樹木伐採)が完了