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アート・ブレイキー

あーとぶれいきー

アート・ブレイキー(英:Art Blakey)は、アメリカ合衆国のジャズミュージシャン、ジャズドラマーである。

概要編集

1900年代に活躍した、アメリカ合衆国ジャズミュージシャンであり、ドラマーである。英語表記︰Art Blakey


1919年にペンシルベニア州のピッツバーグで生まれ、10代後半からジャズ・バンドの活動を開始しニューヨークへ進出した。

元々はピアノを担当していたとされるがドラムへ転向し、当初は腕が未熟であったが同じジャズミュージシャンのディジー・ガレスピーからアドバイスを受けることでみるみる上達し、後に「ナイアガラ・ロール(英:Niagara Roll)」と呼ばれる特徴的なドラミング奏法を会得する。


1954年〜1955年にかけてジャズピアニストのホレス・シルヴァーと共に『ジャズ・メッセンジャーズ』を結成し、ジャズの黄金時代を牽引したマンハッタンの名ジャズクラブ『バードランド(Birdland)』で演奏し人気を博した。


翌年にシルヴァーが脱退したのを機に不遇の時代となるが、その後にサクスフォン奏者にして作曲家のベニー・ゴルソンと出会い、彼のバンドの立て直しを頼んだことでメンバーを総入れ替えし、代表曲である『モーニン』をはじめとした名曲が誕生した。

お披露目となったニューヨークのタウン・ホールにおける初公演は大成功を収め、後にジャズ専門のレコード会社で業界屈指の名門レーベルである『ブルーノート・レコード』から、上記のモーニンと同名のアルバムが発売され、これが空前の大ヒットとなる。


その後もメンバーが何度か変わっているが、ブレイキーはジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして多くの曲を手掛け、時に海外でもコンサートを行い活躍し、その功績はジャズ界に多大な影響を与えることとなった。


また、彼を語る上で欠かせないのが、大の親日家であったことである。

彼をはじめとしたジャズ・メッセンジャーズのメンバーたちは、母国であるアメリカを含めツアー先の世界各地で、自分たちが黒人である故の人種差別意識により、人気バンドでありながら不当で理不尽な扱いを受けていた。

しかし、1961年に彼らが日本へ初公演に訪れた際、日本人ファンたちにはそうした人種差別意識は全く無く、ブレイキーらを一目見ようと空港に大勢が歓声と共に殺到し、中には彼らに手を振ったり花束を持ったファンも少なくなかった。

ブレイキーはその信じられない光景と雰囲気からは感極まって号泣し、その後にスピーチを求められた時も涙で上手く話すことが出来なかったという。

無事に公演が大成功を収め、帰国の際にブレイキーは「世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれた」と述べていたという。


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