概要
イギリスの登山家。生没年は1886年6月18日〜1924年6月8日もしくは9日。
1920年代、イギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。その最期は長年にわたって謎に包まれていたが、75年後の1999年5月1日、国際探索隊によって遺体が発見された。しかし、マロリーがエベレスト登頂を果たしたか否かは判明せず、未だに論議を呼んでいる。
経歴
牧師家庭に生まれたマロリー。13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グレアム・アーヴィングの影響で登山を始めることになる。
1905年ケンブリッジ大学に入学し、学位取得後も大学に残り小説を執筆。その後チャーターハウス校にて教師になっている。この間に登山の腕を磨き、イギリス最難関のピラー・ロック登頂に成功した。彼が開拓したルートは後に「マロリー・ルート」とよばれる。
チャーターハウス校在校中に妻と3人の子をもうける。
エベレストへの挑戦
第1次遠征隊
戦後の1921年、マロリーは第1次エベレスト登頂隊に招聘。
この1次遠征は登頂への準備遠征であり、ロンブク氷河からルートを模索した。
ここで一行は東ロンブク氷河ルートを発見した。これは今でもチベット側のエベレスト登山者が使う最速ルートであり、マロリーは初めてエベレストに足を踏み入れた人類となった。
第2次遠征隊
翌年の1922年、前回よりメンバーを増やしての遠征。
遠征隊は3度の登頂アタックを試みた。マロリーは酸素ボンベは信頼性が低いと考えてこれを用いず、メンバーのサマヴィルやノートンと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は標高8,225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。
次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは、酸素ボンベを担いで5月27日標高8,321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。
ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかしマロリーらがシェルパとともにノース・コルを目指して斜面を歩いている時に雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。マロリーは帰国後、第2次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息だったという思いは他の隊員と変わらなかった。
第3次遠征隊
1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは、1924年の第3次遠征隊にも参加を要請された。1922年同様隊長はブルース将軍が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム、E・O・シェビア、地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にする事となるアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。
今度は酸素器具をちゃんと使うことにしたマロリー。
第6キャンプを目指していた頃、オデールは化石を見つけて大喜びする。
瞬間、オデールはセカンドステップ(山頂前の難所)へ到達したマロリーとアーヴィンを見つけた。が、再び雲に覆われ、2人を見失ってしまう。
オデールは2人が来るまでしばらく待っていたが、まるで気配がない。オデールは2人が下山できる準備をして、先に下山した。第5キャンプへ戻ったオデールは再び2人を探すが、見つからない。最終的に遠征隊はモンスーンにより諦めざるをえなかった。
国民的英雄となっていたマロリーの遭難はイギリス中でニュースとなり、国葬のような規模で葬儀が行われた。列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルドや国王ジョージ5世をはじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。
1953年、イギリス隊のメンバーでニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーがシェルパのテンジン・ノルゲイにより、人類初のエベレスト登頂が達成された。
そこに山があるから
あまりにも有名な名言。しかしこれは誤訳であり、正しくは
「Because it's there.(そこにエベレストがあるからだよ)」。
1923年のニューヨーク・タイムズの記事にて「なぜあなたはエベレストに登りたかったのですか(Why did you want to climb Mount Everest?)」という質問に対するアンサーである。
マロリーも、この手の質問を何度もされてウンザリしていたといわれる。