大統領になるまでの経緯
1895年に首都ブエノスアイレス郊外のロボスで、中産階級の下の家庭でイタリア系の父とスペイン系の母との間に生まれた。
16歳にアルゼンチン陸軍士官学校へ進学。1913年12月に卒業した後、アルゼンチン陸軍の第12歩兵師団に少尉として配属された。23年に大尉に昇進し、26-29年まで陸軍大学校で軍事史の研究を務めた。
1939-1941年までイタリアで駐在武官として赴き、ファシズムに影響をうける。
1943年5月に陸軍次官に任命。10月に国家労働局次長に任命、労働局が労働福祉長に改組するとペロンは初代労働福祉庁長官になり、労働法の制定や労働者の組織化など労働者保護政策に力を注いだ。
1944年、ペロンの友人だったエデルミロ・フリアン・ファーレルが大統領に就任。ペロンも陸軍大臣・副大統領に就任し、事実上の実権を握るようになる。
ペロンが枢軸国に寄っていると非難したアメリカは大使召還や経済制裁などの反ペロン政策を採った。しかしこれはアルゼンチン国内でペロンを外圧に抵抗する国家主権の擁護者と印象付けることになる。この頃からペロンの思想はペロニスモ、支持者はペロニスタと呼ばれるようになった。
1945年10月17日にアメリカが後押ししたクーデターによって一時拘束されたが、ペロニスタの軍人や労働者がこれに抗議し、クーデターは失敗。釈放された。
1946年2月の総選挙で大統領に当選。
政策
6月の大統領就任後、彼は以下の政策を採った。
- 労働組合の保護
- 労働者の賃上げ
- 女性参政権の実現
- イギリス系やアメリカ系などの外資系企業を国営化
- 貿易の国家統制
- 離婚法の制定
- 反対派の強制収容所送り
彼を圧倒的に支持したのはやはり労働者層であった。
彼が推し進めた労働者のための政策とその強引な手法は左翼ファシストとも評された。
第二次世界大戦時にアメリカなどへの牛肉、羊肉などの輸出で得た外貨でこのような政策を実施したが、すぐに使い果たした。
しかも1949年頃から食糧輸出も不振になったのでインフレが発生した。
1951年末の総選挙で再選したものの、1952年には国民からカリスマ的人気を受けていた妻・エバが亡くなると国民からの支持を失う。
また、離婚法の制定によってカトリック教会との関係は悪化した。
亡命と復権
1955年6月にクーデター未遂事件が、9月には海軍と陸軍による軍事クーデターが起こり、大統領の職を追われたペロンはパラグアイ経由でスペインに亡命した。その後、ナイトクラブ歌手のイザベルと再婚する。
ペロンが亡命した後もアルゼンチンは政情不安が続き、経済状況も悪化したままであった。
このような状況下でペロン亡命後もペロニスタが影響力を持ち続け、1973年にペロン党が勝利し、エクトール・カンポラが大統領に就任。
だがペロ二スタは左派と右派で内部抗争が激化してしまうと、ペロニスタを統率できる人物として再びペロンが脚光を浴びた。
1973年7月のカンポラの辞任を受け、ペロニスタはペロンに帰国して大統領選に出馬することを要請。9月に行われた大統領選で勝利し、10月にペロンは大統領に就任した。
だが既にペロンは78歳。混迷しているアルゼンチンをまとめるほどの指導力はなかった。
1974年7月に心臓発作で病死する。
ペロンの葬儀には100万人の支持者が参列したという。