プロフィール
名前 | フェデリカ・ドッリオ |
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身長 | 166cm |
年齢 | 19歳(1944年末) |
誕生日 | 4月24日 |
愛称 | 「リカ」 |
原隊 |
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所属 |
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階級 |
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使い魔 | イタリアン・グレーハウンド |
使用機材 |
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使用武器 |
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イメージモデル
名前:フリオ・ニクロ・ドッリオ (1908-1942)
所属:イタリア王立空軍
撃墜数:7
22歳で航空技師になると民間操縦士の免許を所得し、CNAでテストパイロット兼地元飛行学校の教官を、そして移籍してブレダで主席テストパイロットを務め、両社において飛行に関する世界記録達成のための記録飛行を実施し、いくつかの世界記録を達成した。
CNAに勤めている間にイタリア王立空軍で国民兵役を終え、飛行少尉となったが任官はしなかった。
1932年にCNAにおいて水上旅行機部門の世界高度記録を、1938年にブレダにおいてブレダBa.88の試作機で距離100kmと1000kmの世界速度記録を樹立。
イタリアの第二次世界大戦参戦に伴い、自ら志願してイタリア王立空軍に大尉として現役復帰し第51航空団第20航空群第353飛行隊に配属、次いで第151飛行隊長に任命され北アフリカ、シチリア島等で戦果を挙げた。
第151飛行隊においてエンニオ・タラントラは彼の僚機を務めた。
1942年7月27日、マルタ航空戦においてジョージ・F・バーリングに撃墜される。空中爆発で遺体は確認されず。
人物像
第504統合戦闘航空団(504JFW)『アルダーウィッチーズ』司令。
機械好きで技術者を志望し、軍でストライカー等の研究に従事していたが、試験的に受けた飛行訓練で高い空戦ウィッチとしての適性が判明する。技術職へのこだわりから、正規教育を受けて少尉に任命されたにもかかわらず、任官せずテストパイロットの道を選ぶ。
欧州での戦闘が本格化すると軍に復帰し戦果を重ね、第151飛行隊長となり、さらに精鋭部隊「赤ズボン隊」に抜擢される。ロマーニャのトップエースだったこの時期の僚機がエンリーカ・タラントラ。
1942年にはタラントラや、ブリタニアから派遣されたナタリア・F・デューク、パトリシア・シェイドと共にマルタ島防衛の任にあり、同島への物資輸送作戦「ペデスタル作戦」では、燃料欠乏に苦しみつつも、近海に出現し輸送船団を襲うネウロイを掃討。輸送船団到着後の第1次マルタ島防衛戦では、カールスラントのエディタ・ノイマンとヴェンデリーン・シュレーア、ブリタニアのエリザベス・F・ビューリングを加えた6人のウィッチを率い、ブリタニア、扶桑、リベリオンの3カ国海軍と共に、島の脅威となっていたドーム状母艦型大型ネウロイの殲滅に成功するが、自身は大型ネウロイがコアを露出する直前に発した閃光に視界を奪われ衝突。ビューリングとタラントラに救出され一命は取り留めたものの、全身をギプスで固められる程の重傷を負ってしまう。以後、ドッリオは半ば引退状態で療養に努めることになる。
難航していた504JFWの結成が決まると、司令として復帰する。長い実戦ブランクに加え年齢的に魔力の減衰期である事から、前線での戦闘任務や部隊指揮は戦闘隊長の竹井醇子に一任し、自らは組織運営と管理に専念している。
赤ズボン隊の後輩であるフェルナンディア・マルヴェッツィに目をかけ可愛がっているが、まだJFWの指揮を任せるには経験不足だとも感じており、竹井による育成に期待している。
技術者ではあるが、堅実な理論よりは一瞬の閃きで動く天才肌。その戦果と、明るくサービス精神旺盛な振る舞いから民間レベルでの知名度が高い。
組織運営においても同様の傾向で、組織の下支えや基礎作りに関しては書類仕事含め有能だが、その上で遊び心も必要という方針。『ケイズ・リポート3』には「世の中を面白いか面白くないかで判断し、面白くないならとことんまでいじり倒して、無理矢理にでも面白くする達人」と書かれている。
一例を上げると…
- 赤ズボン隊在籍時(『ケイズ・リポート3』の記述からすると第1次マルタ島防衛戦後)、前線への戦意高揚等の目的でウィッチの「せくしーカレンダー」を企画。「高揚し過ぎちゃうから危ない」という理由でロマーニャ公からやんわりと止められた。これに対し一部の過激派青年将校の間でクーデターが計画されたという噂がある。カレンダーの代案に赤ズボン隊グッズを企画・販売。
- 第501統合戦闘航空団(501JFW)の宮藤芳佳がローマ市街へ買出しに出た際、赤ズボン隊旗をイメージした枕を購入(二期5話)。