概要
出生名はナルシッサ・フローレンス・フォスター。
フローレンスは資産家の娘として生まれ、幼少期から歌やピアノなどを習い音楽に親しんだ。歌手を夢見て音楽留学を希望していたものの、父の反対に遭い断念している。
17歳のころ、年上の医師、フランク・ジェンキンスと駆け落ちのような形で結婚。一時は家族とも絶縁状態になる。しかし、夫から当時死の病とも言われた梅毒を移されてしまい、34歳で離婚。離婚後はピアノ奏者や音楽講師として生計を立てるが大成せず、数年で実家に連れ戻される。
41歳のころ、イギリス生まれの舞台俳優シンクレア・ベイフィールドと知り合い、事実婚状態となる。まもなく父が亡くなり、多額の遺産を引き継いだことをきっかけに、母とニューヨークへと移り住み、社交界に進出。もともと両親と元夫からは歌手の夢を反対されていたが、歌のレッスンを受け、夫の支えを受けながら音楽活動を行うようになる。
また自身で「ヴェルディ・クラブ」という基金を立ち上げ、音楽活動だけでなく慈善事業にも熱心に取り組んだ。
最初は仲間内の小さな催しであったが、夫と伴奏者コズメ・マクムーンとのトリオで、さまざまな場所で公演を行うようになり、時に批評家たちの厳しい意見にさらされながらも、晩年まで精力的に活動した。
76歳のころ、それまでの活躍が話題となり、ついにはカーネギー・ホールでのリサイタルを開催。
しかし、公演の数日後に倒れ、約一ヶ月後に亡くなった。
2015年には『偉大なるマルグリッド』(フランス)、2016年には『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(イギリス)という、彼女の生涯を題材にした映画が公開されている。本項目は主に『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』日本語版公式ウェブサイトの記述を参考にした。→参考
その歌声について
…概要ではあえて触れてこなかったが、フローレンスはとんでもない音痴、それもほぼ自覚がなかったのである。
まずはこちらを聞いてみてほしい。
フローレンスは、音程もリズムもまったく安定せず、声域も狭く、声量も豊かとは言えず、おそらく誰が聞いても音痴と思うような歌声であることがわかる。また、よく聞くとピアノの伴奏が彼女の歌唱に合わせてテンポやリズムが大幅にアレンジされており(ピアノのソロパートだと譜面通りに演奏されている)、文字通り彼女専門の伴奏となっている。
さらに、彼女がレパートリーとしていたのはいずれもオペラの中では超のつく難曲と言っていいようなものばかりであり、仮に彼女が普通程度の音痴であったにしろ歌いこなすのは困難であったと考えられる。
なお、コズメ・マクムーンが伴奏者に選ばれたのは、彼女の歌声を聞いても笑わなかったからだと言われる。
カーネギー・ホールでリサイタルができるほど話題となっていたのも、彼女がニューヨーク社交界の有名人であることに加えて数々の批評家が皮肉混じりに語ったその音痴ぶりからであり、少なくはない聴衆が「金持ちの道楽」と冷やかし半分の気持ちで参加していたとされる、しかも、シンクレアの口利きにより嘲笑や批判的な意見は封じられており、フローレンスは自身の歌唱力が極めて劣っているとは考えていなかったようである。
しかしながら、幼少期にピアノや歌のレッスンを受け、自身も音楽講師やピアニストを務めていたこともあるという経歴からすると、「自身が音痴である」という自覚が全くなかったとは考えにくい。これについては、フローレンスは最初の夫から感染した梅毒が原因で耳や脳の神経に異常があり、正しい音程を認識することができなくなっていたのではないか、と推測されている。
一方、フローレンスは自身に対する(小馬鹿にするような)批評や嘲笑に気づいていなかったわけでもないようだが、あくまでポジティブに、趣向を凝らした楽しいステージを披露し続けている。
晩年には「これまでマンハッタンで披露された中でも、おそらく最も完璧かつ絶対的な才能の欠如」と言われたほどの、型破りな歌いぶりで聴衆を楽しませて、一般にも大変な人気を博した。
人物
控えめで親切な性格の人物で、1941年にタクシーに乗車していて交通事故に巻き込まれた時、意識の混濁まで体験していながら、タクシー会社に苦情の一つも言わず、逆に「以前より高いFの音がでるようになりました。ありがとう」と運転手に高級葉巻を一箱送ったという逸話が残っている。
自身が一度音楽への道を絶たれ、貧困に喘いだ時期もあるという経歴から、チャリティーや寄付、慈善事業、貧しい音楽家への支援に熱心に取り組んだ篤志家でもあり、友人たちは彼女のリサイタルがあるたびに嬉々として前列を埋めた。このように人柄でも愛された人物でもあった。