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モ5251形

もごせんにひゃくごじゅういちがた

本記事では、信貴山急行電鉄時代に「デ5形」として製造、のちに近畿日本鉄道所属となった「近鉄モ5251形」について解説。
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曖昧さ回避編集


概要編集

近鉄モ5251形は、1944〜77年(昭和19〜52年)にかけて同社の南大阪線と伊賀線(現在は分社化され伊賀鉄道となる)で使用されていた一般車両で、同社が吸収合併した信貴山急行電鉄のデ5形を前身に持つ。


スペック編集

  • 最大寸法:長さ14,260mm×幅2,650mm×高さ3,795mm
  • 自重:33.0t
  • 主電動機:MB-64C(60kw)×4
  • 制御方式:抵抗制御、手動進段制御装置
  • 制動方式:AMA自動空気ブレーキ、手動ブレーキ、カーボランダムブレーキ
  • 駆動方式:吊り掛け式
  • 台車:イコライザ式(新製時はKS-85L)
  • 定員:90名(うち座席42名)

かつての山上電車編集

この車両は、現在の大阪府八尾市にある高安山駅と、奈良県生駒郡三郷町にかつて存在した信貴山門駅とを結んでいた信急平坦線(全長2.1km)が1930年(昭和5年)に開業するのに合わせ、日本車輌にて3両が製造された全長14m級の小型車である。


車体は半鋼製。前面非貫通3枚窓・両運転台方式で、扉・窓配置はd1D6D1d(Dが客用扉、dは乗務員扉)となっていた。

山岳路線ということもあり、ブレーキには当時一般的に使われていたAMA自動空気ブレーキに加え、線路にブレーキシューを圧し当てて停車する「カーボランダムブレーキ」も備わり、実質的な二重ブレーキ車両となっていたほか、台車も鋳物製が使われていた。


搬入は平坦線と同時開業した鋼索線(現・西信貴鋼索線)を使って行われた。

デ6は1937年(昭和12年)、走行中に谷底に転落して車体を大破、そのまま廃車になるが、残るデ5・7は、信急が平坦線・鋼索線共に不要不急線指定を受け休止になる前日の1944年1月7日まで運行を続け、今度は鋼索線で山麓に下ろし、南大阪線にその活躍の場を移す。このときデ5形を改め、モ5251形とした。

信急平坦線には途中駅がなく、高安山駅〜信貴山門駅とを往復するだけなので、サボ受けは存在しなかったが、南大阪線への移籍に伴い、前面にサボ受けが増設された。


河内平野から伊賀盆地へ編集

ところが、小型車であることが災いしたのか、南大阪線での活躍はわずか2年で終わり、1946年(昭和21年)に伊賀線へ転属。再び信貴山上を走ることもないであろうと判断されたためか、台車は他車の廃車発生品に履き替えられ、特徴的なカーボランダムブレーキも失われた。

当時、伊賀線は西名張駅まで延びていたこともあり、車両との間が広く開いていた駅が存在したため、ドアステップも増設された。このドアステップは、伊賀神戸駅〜西名張駅が1964年(昭和39年)に廃止になると同時に撤去されている。


以後、当時の伊賀線で唯一、荷物室を持たない車両として活躍を続けてきたが、程なくして伊賀線へのATS導入が決定。これに合わせ、名古屋線を追われたモ5000形・ク5100形への車種統一が決まり、1977年7月13日の最終運行日をもって引退した。


なお、先述の平坦線は結果的に近鉄の1路線として復活することなく、1957年(昭和32年)3月12日付で正式に廃線となり、跡地は信貴生駒スカイラインの一部に転用された。


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