言葉の経緯
当時イエスの事を良く思っていなかったパリサイ人と律法学者は、姦淫の罪を犯した女を連れて来てこう言った。
「モーセの律法によると、この女は石打ちに処する様に命じられていますが、貴方ならどうしますか。」
パリサイ人達はイエスを試し、その揚げ足を取りたかったのである。
しかしイエスは彼らの心の内を知っており、
「あなた方のうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい」
と言った。それを聞いたパリサイ人達は、年長者から一人、また一人とその場を離れていった。
そしてイエスは連れて来られた女に、
「婦人よ、あの人達(パリサイ人達)は今何処に居ますか。貴方を罪に定める者は無かったのですか」
と尋ねた。すると女は、「誰もいません。」と答えた。
それを聞いたイエスは、
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
と、彼女の罪を許したのだった。
解説
このくだりに登場する女性は「姦通の女」とも呼ばれる。実は有力な写本には記載がなく、後世の加筆部分と考えられている。
しかしながら伝統的に『ヨハネによる福音書』の記事そのものとして受け入れられ、レンブラントの『姦淫の女』など、様々な芸術作品のモチーフとなってきた。
人物、エピソード紹介の例
2世紀の人物である、フリュギア(現在のトルコ中西部)のヒエラポリスの司教パピアスが書いた書物の断片にも簡素ながらこの女性を連想させる文(英訳Ⅵ、和訳2.17.を参照)がある。この断片によると『ヘブライ人による福音書』に見られるものだという。
3世紀のシリアで書かれた(西暦230年頃とみられている)規律文書『使徒戒規(Didascalia Apostolorum)』6章にはエピソードとしての体裁が整った文章が存在している(こちらの英訳PDFの67ページ終盤~68ページ冒頭以降を参照)。
本書によると、あるとき、長老たちに「罪を犯した女」の裁きを委ねられたイエスは、あの長老達は貴方を咎めたか、と彼女に尋ね、彼女が否定すると「行って、これを行う為にもう戻ってこないように。私もあなたを咎めない」と返した。
筆者はこのエピソードを引用するにあたって、悔い改める者を受け入れない者は無慈悲であり、神に対して罪をおかしている。なぜならイエスの行動に倣ってないからであると語り、司教たちに改めてイエスと神の教えを模範とするように説いている。
4世紀後半(375年から380年まで遡ることができる)『使徒教憲』(Constitutiones Apostolorum)でも『ルカによる福音書』7章47節を引いた上で、長老からイエスに裁きをゆだねられた、罪をおかした女性が引き合いにだされる。
4世紀のミラノ司教アンブロジウスと同一視され、現在はAmbrosiasterと呼ばれる人物の文章では彼女がおかした罪が姦淫であったことが明記されている。
聖書写本での登場
カトリック教会で重要視されるラテン語訳「ウルガータ」の訳者ヒエロニムスは5世紀初頭(417年に)このエピソードを含んだギリシャ語やラテン語の写本の存在について報告している。
この部分を欠いた写本について、イエス・キリストが姦淫を許容したという印象を与える事を恐れたのではないか、と疑問を抱いたアウグスティヌス(ヒエロニムスと同年代の人物)のような人もいた。
律法上のルール
モーセが書いたとされる律法(トーラー)には様々な罪と、それについての刑罰の手順について記されている。
『レビ記』20章10節には「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない」とある。
8章4節、5節でイエスの論敵たちが持ち出した箇所は『申命記』17章8節から書かれている部分である。
「あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。
ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。
そのような者を殺すには、証人がまず手を下し、それから民が皆、手を下さなければならない。こうしてあなたのうちから悪を除き去らなければならない。
町の内に訴え事が起り、その事件がもし血を流す事、または権利を争う事、または人を撃った事などであって、あなたが、さばきかねるものである時は、立ってあなたの神、主が選ばれる場所にのぼり、
レビびとである祭司と、その時の裁判人とに行って尋ねなければならない。彼らはあなたに判決の言葉を告げるであろう。
あなたは、主が選ばれるその場所で、彼らが告げる言葉に従っておこない、すべて彼らが教えるように守り行わなければならない。
すなわち彼らが教える律法と、彼らが告げる判決とに従って行わなければならない。彼らが告げる言葉にそむいて、右にも左にもかたよってはならない。
もし人がほしいままにふるまい、あなたの神、主の前に立って仕える祭司または裁判人に聞き従わないならば、その人を殺して、イスラエルのうちから悪を除かなければならない。」
『申命記』22章23節、24節には石打ち刑が用いられるケースについて記されている。「もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない」
この規定に基づくなら、イエスの論敵たちは構わず石を投げつけ死刑にすること自体は可能だったはずである。
彼女が婚約した処女でありなおかつ二人、または三人の証言者がルール通りに揃っていれば。最初に石を投げつける者が居なかった、という事は証人を揃えられず、きちんと律法通りの裁判を彼等自身しなかった事を意味する。
『ヨハネによる福音書』8章3節には女性は「姦淫をしている時につかまえられた」とあるが、証人が一人では刑は成り立たない。
その場に有効な証人が揃っていないなら、この加筆部分にあるように皆が立ち去る他ない。