概要
- 在位 : 1864年 - 1886年
- 生没 : 1845年 - 1886年
本名はルートヴィヒ・オットー・フリードリヒ・ヴィルヘルム。
ヨーロッパ3大王家の一つヴィッテルスバッハ家の嫡子。
神話やロマンを求め、様々な建築や歌劇に没頭し破滅的浪費を繰り返したことで知られる。
同性愛者で、若いころには様々な美少年たちをはべらせていた。
生涯
1845年、ニンフェンブルグ宮殿にてその生を受ける。
偶然にも生まれる日と時間が祖父のルートヴィヒ1世と全く同じであったため、祖父の希望でルートヴィヒ2世と名付けられた。
父親のマクシミリアン2世は厳格な人物で、しかも当時王の座に即位したばっかりなので執務につきっきりで、子供の世話は家庭教師に任せていた。しかも教育は結構なスパルタで、王族とは思えないほど質素な食事や、一日の大半を帝王学に費やす英才教育を徹底させた。
それ故かルートヴィヒはふさぎごみがちになり、やがてゲルマンの神話やブリタニアの騎士物語に興味を示すようになったという。
そんな彼の世界を一変させたのは15歳の時、リヒャルト・ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を鑑賞した時だった。観終わった際、彼は感動のあまり肩を震わせて泣いていたほどだったといわれている。その影響はすさまじいもので、後に建築したリンダーホーフ城の地下の洞窟に音楽家を招き寄せ、白鳥の騎士ローエングリンの格好をして舟遊びを楽しんだ。
その3年後、父親の急死により王位に就いたルートヴィヒは、早速ワーグナーを招集し庇護した。ワーグナーは政治的な確執が元で故郷を追われて国外で生活しており、ルートヴィヒ2世の招集を大変喜んだという。
しかし金使いが荒い上、ルートヴィヒに政治的な助言まで始めたワーグナーを臣下は快く思わず追放するよう進言し、ルートヴィヒはワーグナーを王宮から遠ざけざるを得なくなった。
またワーグナー自身も純真なルートヴィヒとは違い、「借金を踏み倒してでも自分が理想とする芸術の実現を目指す」、「本気の愛がそこにあるならたとえ相手が人妻でも構わない」など過激なところがある人物だったため、徐々に2人の間には亀裂が生じていった。
結局最後まで友好関係自体は変わらず、当時上演不可能とされた一大歌劇「ニーベルングの指環」上演を目指すワーグナーのためにルートヴィヒが専用の劇場を建てるための費用を負担してやり、ワーグナーはその計画を実現させるなど2人の信頼関係は多くの成果をもたらしたが、それはルートヴィヒの孤独・空虚感を癒すには至らなかった。
ルートヴィヒは自分の子供の頃からの夢をカタチにするべく、かの有名なノイシュヴァンシュタイン城やリンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城などの中世風の城を建築していった(ちなみにノイシュヴァンシュタイン城はかつて存在したシュヴァンシュタイン城にちなんでおりルートヴィヒが趣味で命名したわけではない)。これらの城は既存の建築家ではなく画家や芸術家が設計し、実用性よりも徹底して美しさのみが求められた。そのため、あるべきはずの教会やカタコンベがなく、住むにはあまり適さない代物である。完全に2世の趣味を投影したものと言えるだろう。このころから「メルヘン王」という異名がつけられた。
1866年、普墺戦争が勃発し、バイエルンは敗戦したために多額の賠償金が支払われ、その後の普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした。同時期にルートヴィヒにも不可解な言動が目立つようになり、ルイ16世やマリー・アントワネットの肖像画を椅子に飾り、まるで共に食事するように振る舞ったり、夜中にそりで一人遊びに興じるなどの奇行が目立つようになった。それで1886年、2世は精神病と診断されベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。彼の死について友人であるエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べている。
余談
早い話が中二病である。彼が望む理想の世界は、絵画や物語の中にあったのだ。
生前2世は「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残した。それは彼が城を自分の世界にとどめたかったという思いからきた言葉であったが、誰もその美しい城を壊すことはせず、文化財として今日まで愛されている。
またノイシュヴァンシュタイン城はディズニーのロゴである「シンデレラ城」のモデルとして知られている。
現実から逃避する為に建てた彼の城が、後に夢の国のシンボルとして飾られるとは、いったい何の因果であろうか。
ルートヴィヒ2世が登場するフィクション
小説
漫画
ミュージカル
- 〜夢と孤独の果てに〜『ルートヴィヒII世』宝塚歌劇団