経歴
1922年、福岡県に生まれる。
1944年に佐世保海兵団に入団。上海に向かう途中で機銃掃射に会い片足を失い戦線離脱。沖縄戦の激化もあり武雄の海軍病院に移動。そのまま終戦を迎え、1950年に日本大学芸術部美術科に入学し、1952年に戦争映画の美術スタッフを探していた美術課長に認められ、新東宝に入社。
1954年、戦争映画の美術を担当していた最中、『ゴジラ』の製作に呼ばれ、円谷英二のもと美術監督の渡辺明を手伝う。そのまま東宝へ移動し、移動し、円谷英二の手がけた黄金期時代の東宝特撮全てのミニチュアセットに関わることとなる。
彼の作るミニチュアセットは徹底的にリアルに再現するために関わる作品の調査や研究、計算を細部にし、徹底的な資料集めをして創り込み一切の妥協を許さずその上でイメージボード、絵コンテ、セット図面も井上自身が書き、同時に特撮の組織作りをして、時には怪獣やメカニックデザイン、予算管理まで井上自身が行っていた。
ミニチュアの製作はとにかくリアルに創り込む、後の世代にとってのパイオニア的存在で、ミニチュアセットに空気の層まで取り込むことや、常に本物を再現することを追求した。世界に誇れる日本のお家芸とも言われる特撮美術のミニチュアセットをリアルに創り込む先駆け的な役割の一人者。『竹取物語』と『首都消失』で日本アカデミー賞特殊技術スタッフ賞を受賞。
作品は怪獣映画だけに留まらずSF映画、ファンタジー映画、歴史映画、戦争映画などミニチュアを使用する映画にはほとんどすべて参加し、1970年の円谷英二の死去後もその姿勢は全く変わることなく、彼が手掛けたりかかわったりした作品は160作品にも及ぶ。井上の元で働くスタッフから「井上学校」と言われ、多くの弟子を育てた。
1971年の『ゴジラ対ヘドラ』後東宝を退社し、株式会社アルファ企画を設立。『スペクトルマン』などテレビ特撮に活躍の場を移したが、1973年の『日本沈没』で東宝特撮に復帰。以後東宝特撮美術面の中心人物として活躍した。
2012年2月19日、心不全により死去。