大逆事件とは、大逆罪(君主を弑逆しようとする重大犯罪)に関する事件のこと。
大逆罪に関連して上記の犯罪事件が知られる。
この項目では、大逆事件として最も有名な、明治43年の幸徳秋水による事件について記述する。
大逆事件(幸徳事件)
明治43年5月、いわゆる大逆事件が起こった。
幸徳秋水(伝次郎)を中心とする無政府主義者が爆裂弾をもって明治天皇に危害を加えようとした陰謀事件で、長野県明科製材所の機械工宮下太吉が計画し、これに長野県埴科郡屋代町に住む社会主義者で無職の新村忠雄、東京府下滝川村の草花栽培業古河力作、幸徳の内妻菅野スガの3人が参加し、明治43年の秋季を期して決行しようと計画していたものである。
長野地裁の三家検事正は、刑法第七十三条(大逆罪)に該当するものとして、5月31日、事件を松室検事総長に送致したのであった。
未曽有の大事件である。
それだけに長野から東京へその報告が届くと、司法当局は頗る緊張した。
神奈川県湯河原温泉に滞在中の幸徳は6月1日の朝、上京の目的で、人力車に乗って湯河原の停車場に向う途中、東京からやってきた判検事の一行に出会い、駐在所へ引き戻され、それから東京へ護送された。
幸徳の逮捕送局について、当時東京控検事でのちの法政大学総長小山松吉は「幸徳伝次郎は此の事件に関係のない筈はないというのが、当時官吏一同の意見であったのであります。菅野スガは其の内妻であり、新村忠雄も宮下も幸徳に無政府主義を鼓吹せられ、弟子同様になって居るものでありますから、幸徳が此の事件に関係ない筈はないと断定した」と回想している。
越えて6月4日、東京地方裁判所の小林直検事正や、有松警保局長がこの事件について談話を発表し、司法当局も政府も、事件は共犯者5名、連累者2名に限定したい方針であるように見えた。
ところが同日の東京朝日新聞に発表された東京控訴院検事小山松吉の談話によると、この事件を主管する大審院の検事局では、「当局は一人の無政府主義者無きを世界に誇るに至る迄、飽く迄其の撲滅を期する方針なり」という強硬方針を打ち出し、早くも当局の方針ははじめの方針よりは拡大しそうな気配を示した。
時の総理大臣桂太郎は事件の成り行きを心配して、民刑局長として大審院検事を兼務した平沼騏一郎をしじゅう私邸に呼んで、その報告をきいた。
大逆事件は拡大して熊本、和歌山、信州など全国的な規模に拡大し、主犯の宮下太吉、新村忠雄、菅野スガ、古河力作をふくめて、幸徳秋水を首魁とする無政府主義者26名が公判に付され、うち連累者の新田融が懲役11年、新村善兵衛(新村忠雄の兄)が懲役8年に処されたほか、24名が死刑の宣告を受けた。
最初に宮下太吉が検挙されてから僅か8ヶ月後の明治44年1月18日のことである。
そしてこの特別裁判は、大審院での一審即決で、控訴も上告も許されなかったのである。
大逆事件は、当局の方針が拡大に変わってからは、ずいぶん無理な政治的事件として、識者の眉をひそめさせた。
それだから政府は、この事件の判決言渡しのあった翌1月19日、天皇に特赦を奏請し、夜になってから天皇の思召による特典ということで、死刑宣告24名のうち12名を無期懲役にした。
幸徳秋水は主義においては首領であったが、大逆罪においては首謀者ではなかった。
菅野スガ、新村忠雄、宮下太吉の3人はある時相議して、自分たちは一身を犠牲にして事を挙げるが、幸徳秋水は無政府主義者の学者であるので、共に一命を失わせるのは惜しい、今後は幸徳を除外して3人が主となって事を挙げようということになった。
幸徳もその意を諒して、中途よりその謀議に遠ざかったものの、刑法第七十三条の犯罪の陰謀のみで成立するものである以上、幸徳秋水は半途脱退したものの遂にその身を救うには足らなかったのである。