青森県立三沢高校在学時に3期連続で甲子園に出場。1969年夏の甲子園では東北勢としては初の決勝戦進出を果たし、延長引き分け再試合の末に敗れるものの、準決勝から45イニング投げぬいた力投と混血(アメリカ人軍人と日本人の母。後に三沢基地の日本人軍属と白系ロシア人(但し本人はフランス系)の夫婦の元に養子に行く)故の日本人離れした色白で端正な顔立ちの美少年として女性ファンの人気が高く「コーちゃん」の愛称で親しまれた。この太田幸司の人気は社会現象にまでなり、元祖「甲子園のアイドル」と称されている。
1969年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団。甲子園のアイドルを自軍に迎える近鉄首脳陣は丁重に迎えただけでなく、太田目当ての女性ファンを見込んで実質的ホーム球場だった日生球場の男女共同トイレを男女別に改修したという。
プロとしては一年目からファンの人気を当て込んだ起用から、「二軍で体を作ると思っていた」と困惑しながらも一軍として登板。オールスターファン投票ではルーキーイヤーから3年連続で一位を獲得して出場。1975年には自己最多の12勝をあげ、1980年の日本シリーズに登板している。
その後は伸び悩み、1983年には読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍、その翌年には阪神タイガースへ鈴木弘規との交換トレードで移籍したが、巨人と阪神では一軍での登板はなく、そのまま引退した。
現役引退後は毎日放送のスポーツキャスターとしてテレビやラジオで活躍。アマチュアゴルファーとしても腕を披露している。
2009年からは新たに発足した日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーに就任している。