概要
富士講は神道の影響が強いものの歴史的な経緯から神仏習合の教義を持つ。
本山派は1132年に富士山を開山し、村山に建てられた富士山興法寺を拠点とし13世紀に村山修験として組織化。14世紀には修験系富士講が成立した。
年は下って、角行という山伏が役行者の啓示を受け、富士山麓の人穴で修行し1560年に角行系富士講というそれまでの修験系富士講から独立した教義を持つ富士講を開教したとされる。年代が下ると光清派と身禄派に分裂。
村上光清率いる光清派は富士御法家とも呼ばれ、村上講という単一組織への結集を原則として、私財を投じて北口本宮冨士浅間神社を復興させるなどの功績を残した。昭和に入ると庶民への浸透を重視し講の集合体という形をとった身禄派に押され、挽回の為に組織近代化を断行。村上講を冨士教と改組し現在に至る。
食行身禄率いる身禄派は庶民への布教を重視し、世直しを掲げたことから多くの富士講組織が結成されたが、山伏の職能を犯す事が度々あり、活動停止命令が出されたこともあった。こうした情勢下1838年には小谷三志により修験色を排して実践道徳を重んじる「不二道」が派生する事となる。明治時代に入ると角行系富士講も教派神道への改組を図る事となり、不二道が1878年改組した実行社と、一山講が複数の富士講組織と合同して富士御師をも取り込んで結成した富士一山講社の2つの組織が、それぞれ1882年に實行教・扶桑教として教派神道として認可された。
その後富士一山講社への結集に参加した丸山講が、維新後富士講の多くは世直しを軽視していると主張し神道本局に移籍する形で神道丸山教会本院として再分離。政府と対立し度々弾圧されるが敗戦によって丸山教として悲願の独立を果たしている。
富士講の多くはこの4団体に集約されることが多かったものの、これらに加わらず独立を保った団体も多くいた。戦後独立系講社は衰退しつつ現在も十数講が現存している。
関連項目
御嶽教 - 同じ山岳信仰系で富士講と並ぶ影響力を持っていた御嶽講の後身。実行教や扶桑教と同じく教派神道の一員である。