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徳川慶喜家

とくがわよしのぶけ

徳川慶喜家とは、日本の家系の一つ。徳川家の分家の一つでもあり、明治期から昭和初期にかけては華族としても扱われていた。
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概要編集

「徳川宗家別家」とも称される家系の一つで、家祖は江戸幕府第15代将軍も務めた徳川慶喜

大政奉還、鳥羽・伏見の戦いでの敗北を経て、徳川宗家の家督を徳川家達に譲り駿府にて謹慎・隠棲していた慶喜は、後に罪を許され1897年(明治30年)に東京へと移住。1902年(明治35年)に徳川宗家から分家する形で徳川慶喜家を興し、公爵に叙爵された。


慶喜は1910年(明治43年)に隠居し、七男の慶久が2代目当主となるが、1922年(大正11年)に急逝したため、家督はその長男である慶光が継いだ。慶光はこの時わずか10歳であり、1993年(平成5年)に逝去するまでの70年に亘って当主の座にあったが、太平洋戦争終結後の華族制度廃止などもあり、戦後は自邸を物納して静岡へと移住している(後に再度東京に居を移している)。

慶光亡き後、4代目の当主となったのがその長男でカメラマンでもあった慶朝である。慶朝には3人の子供がいたものの、いずれも離婚した元妻に引き取られており、2017年(平成29年)に亡くなるまで生涯独身を通した。


前述した事情から、直系の子孫こそ存続しているものの既に徳川姓ではなく、また生前に養子も取らなかったことから、慶朝亡き後はその遺言により、姪で著述家の山岸美喜(慶光の長女を母に持つ)が5代目の当主となっている。このことは2023年(令和5年)に公表されたが、6代目については指名せず当代限りで廃家とすることも併せて言明している(参考リンク)。


外部リンク編集

徳川慶喜家 - Wikipedia


関連タグ編集

華族 徳川家 徳川慶喜


松平容保:江戸末期の会津藩主の一人。孫の和子が慶光に嫁いでおり、4代目以降の当主は彼の子孫でもある

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