概要
第二次世界大戦敗北後アメリカ合衆国を中心とした進駐軍の命令により日本は航空機を使った活動が一切出来なくなったのだが、1952年になってその規制が完全に撤廃されたことで日本航空(1951年に設立)以外の航空会社が次々と設立されることになったが、その頃設立された日東航空、北日本航空、富士航空の三社が対等合併する形で設立された。
この三社合併の背景には、経営基盤があやふやであったが故に大阪-東京線や札幌-東京線や東京-福岡線を開設してこの状態を脱したいという各社の思惑(ただし北海道航空は八戸経由ながら札幌-東京線を開設してはいた)に加え、そんな折も折の1964年2月、北日本航空以外の2社が犠牲者を出す事故をそれぞれ起こしてしまったがために、空の安全性確保のためにも合併による規模拡大やむなし、というものがあった。
なお、この3社合併には東急が一枚噛んでいた。
設立のいきさつや社風に違いがありすぎる航空会社の、言っては失礼だが寄り合い所帯というとで使用機材はそれこそ種々雑多な寄せ集め状態であったため、その整理を行わざるを得なくなったのだが、その過程で主力機として選んだのがYS-11であった。1965年4月に東京-徳島-高知線に就航、以後導入を重ね、日本国内航空の“顔”として親しまれていく。
その一方で、同じ1965年4月にはCV880を導入して東京-福岡線を開設、札幌-東京線も直行線・札幌側の空港変更という形で開設に漕ぎ着け、さらに翌年にはボーイング727も導入した。なお、ボーイング727ではなく、フランスのジェット旅客機であるシュド・カラベルの導入が検討されたが、実現しなかった。しかし経営状態はお世辞にも良かったとは言えず、「将来的には日本航空への吸収もやむなし」という声すら上がってくるようになった。それ故にCV880とボーイング727は1966年7月に日本航空に貸し出すハメになった(うえ、CV880はその年の8月に羽田空港で事故を起こしてしまいお釈迦に・・・・)。さらに東京-福岡線と札幌-東京線も廃止の憂き目に遭ってしまうが、後に日本航空から夜行便(それぞれムーンライト、オーロラ。ただしムーンライトは大阪経由便も設定)を譲ってもらう、と言う格好で復活している
日本航空への吸収合併が前提だとは言え細々と運航を続ける事が出来ていた日本国内航空だったのだが、事実上のオーナー企業であった東急のボス・五島昇は、日本国内航空の存続を目論むようになる。そのために、全日空に吸収合併される事を覚悟と承知で運航を続けていた広島の航空会社・東亜航空のオーナー企業であった不二サツシの社長を舌先三寸でなだめすかしたり、運輸省に根回しをしまくった。その結果、日本航空への吸収合併の回避・東亜航空を吸収合併して存続への道筋をつける事に成功したのだった。
そして1971年5月15日に東亜航空と合併して「東亜国内航空」という、日本語的に不自然な名称(東アジアの国内という意味不明な表現になってしまう)と化したのち、日本エアシステム(JAS)に改称された。