概要
1953年11月30日に東京で設立される。
最初は単発機による宣伝飛行を主に行っており、本拠地は福岡県小倉市曽根にあった元アメリカ空軍の飛行場であった(後の小倉空港→初代北九州空港、2006年3月15日廃港)ほか、広島市吉島にあった吉島飛行場も使用していた。
そんな事もあってか1955年10月には福岡市に本社を移転した。だがそれからわずか約1年後の1956年11月、広島市に本社を移転してしまった。
1958年3月に鹿児島-種子島線を開設、以後鹿児島空港(鹿児島市鴨池に存在した初代)を起点に奄美諸島に路線を開設していく一方、1961年9月、広島市観音に作られた初代広島空港(後の広島西飛行場、2012年11月に廃止)に実質拠点を移し、以後西日本に路線を広げていく。
1964年には神奈川県のアルミ建材メーカーである不二サツシの傘下となった。
以後、大阪に本社が存在していた日東航空の消滅後は西日本の航空会社としてそこそこの地位を築いてはいたものの、将来のことを考え、全日空と密接な関係を取るようになった。それを見てか、運輸省も、「東亜航空は全日空に吸収合併してもらうべき」と考えるようになった。
ところがこれに横槍を入れてきたのが、東急グループのドン・五島昇であった。当時日本国内航空に強い影響力を持っていた五島は、なにがなんでも日本国内航空を存続しようと企んでおり(ちなみに日本国内航空は、日本航空に吸収合併してもらうはずだった)、そのために東亜航空に目を付けたのであった。
五島は東亜航空のオーナー企業であった不二サッシの当時の社長を舌先三寸で丸め込んでしまう。さらには運輸省も、日本国内航空と東亜航空との経営統合を(イヤイヤながら)認めた。
かくして1971年5月15日、日本国内航空に吸収合併される形で、東亜航空は姿を消したのだった。ただし、吸収合併までのいきさつなどもあり、日本国内航空は東亜国内航空と改名している。
使用機材
セスナ180/170/150
ビーチクラフト18
デ・ハビランドDH.114ヘロン(メインイラストの機種)
コンベア240
参考資料(外部リンク)
関連タグ
真矢ミキ:彼女の父親が重役を務めていた。さらに言えば東亜国内航空に“移籍”、そのまま日本エアシステムでも要職を務めている。