概要
1944年5月6日生まれ。アジア人初のメジャーリーガーである。メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。
大学進学を予定していたが、南海ホークス鶴岡一人監督自らが村上家を訪問。鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれ、高校在学中の1962年9月に南海と契約を結ぶ。
2年目の1964年のキャンプ後半、いきなり球団フロントからパスポートを取る準備をするよう言われ、新人の高橋博士・田中達彦と共に3月10日に渡米。メジャーリーグ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣された。
2週間程して後輩2人はモンタナ州にあるルーキーリーグへ行くことになり、村上一人となった。
8月30日にはGMが来て選手達の前で村上がメジャーに昇格する事を発表。
9月1日、打者を打ち取りデビューを0に抑える事ができ、チームは2-4で負け続投は出来なかったもののアジア人として初めてメジャー登板を果たし、村上は翌朝の新聞を見た時に各紙大きな見出しで「 日本人初のメジャー・リーガー 」と書かれた。
9月29日のコルト45's戦では9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたためアジア人初のメジャー勝利投手となった。ただ、当時の日本は東京五輪の準備と開催の真っ只中であっため、日本マスコミの扱いは小さかった。
1965年オフに鶴岡の勇退予定が、後任の蔭山和夫の急死で、改めて鶴岡が復帰した。村上はまだアメリカで野球を続けたかったが、鶴岡への義理を果たすため、1966年に復帰した。
その後、1974年まで南海ホークス、1975年、阪神タイガース、1976~1982年まで日本ハムファイターズに選手として在籍した。NPB通算103勝。
引退後は解説者、コーチ(日本ハム、福岡ダイエー、西武)を務めた。