概要
第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が試作した日本初となるジェット攻撃機。
ドイツのMe262の成功を受けて、その技術を使って開発を進める予定だった。
しかし、資料を乗せた潜水艦が撃沈され、肝心のエンジン関係の図面は失われてしまい、陸上輸送に切り替えたおかげでわずかに残された図面を元に開発を進めざるを得ず、結果的に日本独自の開発となってしまった。
しかも、搭載予定であったネ12Bエンジンも推力が低くMe262には遠く及ばない有様で、爆弾を搭載する特殊攻撃機として開発される事になってしまった。ただし未完成ながら戦闘機型も一応作られていた。特別攻撃機を表す「花」の名称が付いているのは、戦局の悪化で既存のレシプロ戦闘機を温存したいという考えから、名目上は特攻機としてでしか開発許可が下りなかったという事情があったらしい。
外観はMe262に似ているが、一回り小さく(前述したようにエンジン出力が小さかったため)、主翼も後退翼ではなく一般的なテーパー翼となっている。また、主翼は艦載機のように折り畳む事ができた(防空用のシェルター内に格納できるようにするためのもの)。
そして終戦間近の1945年4月、ネ12Bより高出力なネ20の実用化の目処が立ち、そちらを搭載することとなった。
上述の通りドイツから送られたエンジンの実物や詳細な資料は失われてしまったが、ジェットエンジンの開発を指揮していた種子島時休大佐は「一枚の写真で十分だった」「様々な点が効率よく巧みに設計されているが、基本的な原理は我々が今までやってきたことと同じだった」と述懐している。
この種子島大佐は戦国時代の鉄砲伝来に関わった種子島氏の末裔なのだが、ジェットエンジン開発には狂気じみた執念を持っており、息子が赤痢で死んだ際も帰宅せず作業を続けたという。
挙げ句の果てには先祖が夢枕に立ち、「諦めたら火縄銃で撃ち殺すぞ! 頑張れ!」と檄を飛ばされたという話まである。
試験飛行は、1回目は16分の飛行に成功、2回目は離陸を補助するロケットを装備して行われたが、離陸に失敗してオーバーラン。
原因は離陸滑走中、補助ロケットの燃焼が終わったことによる推力低下を、パイロットがエンジントラブルと誤認して制動を試みたためだった。
その後修理中に終戦となり、資料は焼却された。
終戦時には数十機程度が量産状態に入っており、18~25機以上が完成間近の状態にあった。
性能は決して高いものではなかったが、ジェットエンジン制作のための資源が枯渇していた中、ジェット機を完成させて飛行まで漕ぎ着けた執念は評価に値すると言えるだろう。
種子島大佐は終戦時、「橘花は一度の飛行で消えていくが、将来ジェット機の時代は来る」と語っていた。
結局橘花の完成度は高いとはいい難く、戦後のジェットエンジン開発に当たって関係者らは欧米の技術を学び直すこととなったが、大佐の精神は引き継がれていたと言えるかも知れない。
T-1の試験飛行時、操縦桿を握っていたのは橘花のテストを勤めたのと同じパイロットだった。
戦後はアメリカに接収され、エンジンの一部はノースロップ工科大学で教材として使われた。
あるとき、日本で展示されることになり貸与された際、開発者の一人が「このエンジンは俺の息子みたいなものだ!息子を返す親がどこにいる!!」と返還を拒否。
下手すれば国際問題になりかねない横暴だったが、大学側は「永久無償貸与」という形にして解決。現在も生まれ故郷の地で展示されている。
ちなみに、陸軍では同じMe262を元にした戦闘機として火龍が計画されており、こちらの方がよりMe262に近い外観になっていたが、設計のみで終わっている。