概要
ネムノが『東方天空璋』に初登場した際のものである。
ネムノ自身は『天空璋』以前から妖怪の山に住まう存在であったが後述の山姥としての生活信条もあって表に出ることがない存在であり、『天空璋』でもテリトリーへ侵入してきた相手を追い払ったり迎え撃ったりといったために登場している。
妖怪の山の山姥
ネムノは山姥であり、東方Projectにおける山姥は個々人が独立した他者の干渉を拒絶する超閉鎖的な生活環境を求める種族である。この個人レベルでの独立独歩の理念は同じく妖怪の山の住民である天狗たちとは対照的な生き方で、天狗は組織化された集団である。その天狗の一人である射命丸文は、山姥が貫くスタイルについて「 脱依存主義 」や「 自然主義 」などの表現を用いている(『天空璋』)。
そんな山姥であるネムノもまた『天空璋』ではその季節さえ変動させる四季異変についても関心を示さず、むしろ侵入者たちの迎撃にその関心の力点を置いた。
手にした大鉈と並んでその威嚇に用いる表現も「 開きにして天日干しにする 」(ネムノ、対霧雨魔理沙。『天空璋』)や「 掻っ捌く 」(ネムノ、対チルノ。『天空璋』)などかなり生々しくグロテスク。
一方で、自身の掌握する範囲を守るため外部からの侵入に対して威嚇したり追い返したりはするものの山姥は子供など庇護を必要とする者であれば保護して「 立派な人間へと育て上げる 」こともし、ネムノも『天空璋』では気に入った相手であれば認めて快く接する様子も見られている。
博麗霊夢などには自宅でお茶を飲んでいかないか(あるいはこのときは「日が落ちる」ことも意識しているので、その先には食事や宿泊も勧めることとなるか)とするなどそれまでの排他的な様子からは一転して非常にオープンな一面も見せている。ただしこの際誘いを受けた霊夢は、「 まだ長生きしたい 」としてネムノの誘いを断っている。
「 不可侵条約 」を超えて「 なわばり 」(ネムノ、『天空璋』)に入り込んだ文についてもそれを知りつつ侵入したならそれは問題であるとして迎撃を行うも、落ち着いてからはその気概を気に入り、取材の要望にも応えている。
ネムノと「山姥」
ZUNは伝承の山姥は「金太郎」に登場する金太郎の母の山姥(※)といった例外はあるものの「 存在自体は有名だけど基本的に怖い役や敵役、悲しい話になっちゃう 」とし、また有名さに比して山姥自身は華やかさには乏しかったり「 おばあさんのイメージ 」が強かったりと、山姥をモデルにキャラクターを編み上げることの難しさに直面したと語っている(『東方外來韋編』)。
またネムノの造形に際してZUNは「山姥」と関連して実際の1990年代最後半から2000年代初期の日本で流行したファッションスタイルである「ヤマンバ」(ヤマンバギャル)の独特なメイクスタイルの要素をアクセントとして導入することも試みたが、これは見送られている。
「 絶対面白いのはわかるんだけど、そういうことじゃないなって。
出落ち感が強すぎてね。
そうする勇気がなかったのかもしれない 」(ZUN、『外來韋編』)
※伝承を基に絵画や版画などとして表現したものとしては、例えば金太郎と母の山姥の二人を描いた喜多川歌麿(江戸時代)による多数の木版浮世絵が有名。歌麿作品に登場する金太郎の母には我が子を見守る穏やかさや慈愛が溢れている。
「浮世の関」
「浮世」を「ふせい」と読む場合は儚い世の中を差し、「うきよ」と読む場合は「憂き世」(うきよ。辛い、憂い世の中)の音ともあわせて辛く儚い世の中の意味ともなるなど、読みに合わせて拡張性を持つ。
実際は両者の意味を包括した「うきよ」のニュアンスとして理解されることが多い。
また俗世全般あるいは色事を指すこともあり、名詞の冒頭に付いて「浮世~」等となる場合は「現代風な」あるいは「好色な」などの意味をもたらす。「浮世絵」(うきよ-え)などが好例。
「関」(せき)には複数の意味があるが、ここでは物事をせき止め隔てる様子や物理的に隔てているもの(例えば「関鍵」)や場所そのもの(例えば「関所」)を指す、何かと何かを遮り隔てるなどの意味か、あるいは「関心」などにみられるような繋がりや関わりをもつことを意味するものとなるか。
「~の関」という表現には「人目の関」といったものもあり、「(他者への恥や良心、罪の意識などで)行動を抑制させる他者の目」のニュアンスから「人目がはばかられて思うままにできない」などの意味も持つ。
ネムノがその一角を領域とする妖怪の山は例えば人間からは遮絶された妖怪や神々の世界であるが、ネムノにみる山姥の生活スタイルや文などの天狗社会、あるいは河童他様々な種族ごとに文化もまたある。
この内『天空璋』で出会った文とネムノを通した妖怪の山に住まう存在にして流儀を異にするを二つの文化は、ZUNによれば両者はメタ的な視点では「 情報化社会の天狗と、情報を断ち切っている山姥 」という対比関係でもあり(ZUN、『外來韋編』)、両者が「 不可侵条約 」を結んでいることも相まって天狗と山姥の間にも「浮世の関」とも言えるような外界と山姥個々人との生活の間に強い隔たりが存在する。山姥も自分のテリトリーの外部の世界に関心を示さない。
一方で先述の山姥の伝承にも見る迷い込んだ子供への対処や魔理沙や文、あるいは霊夢と対峙した後のネムノように強い者であれば認めるといった様子には、一律に浮世を排するばかりでない、山姥ならではの「関」の姿もまたみられるものとなっている。
天狗との不可侵条約もまた一つの浮世の関であり、これを超えてきた文に対しても当初の対話さえ拒否した姿勢から後には取材に応じるなど一部門戸を開くなどの対応もみられている。
浮世たる他者への積極的な関心を向けることはないが、来る者の質によっては相応に受け入れる性格もまたある。