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基本情報編集

王朝前蜀
生没年大中元年2月8日 - 光天元年6月1日(847年2月26日 - 918年7月11日)
在位期間天復7年9月25日 - 光天元年6月1日(907年11月3日 - 918年7月11日)
都城成都
姓・諱王建
光図
諡号神武聖文孝徳明恵皇帝
廟号高祖
王金 田令孜(仮父)
后妃周皇后
陵墓永陵
年号天復:907年                武成:908年 - 910年               永平:911年 - 915年               通正:916年                   天漢:917年                   光天:918年

概要編集

五代前蜀の建国者。廟号は高祖。字は光図。許州舞陽(河南省舞陽県)の人。


生涯編集

蜀を得る編集

許州舞陽県に生まれる。若い頃は無頼の徒で、塩の密売などに従事し、賦王八と呼ばれていた。後に忠武軍の兵卒ついで隊将となり、黄巣の討伐に参加。


蜀に逃れていた唐の僖宗のもとに赴いて喜ばれ、観軍容使の宦官・田令孜(でんれいし)の養子にされた。自ら求めて西川監軍となった田令孜に代わって、観軍容使となった楊復恭によって、四川の壁州刺史に任じられた王建は亡命者などを糾合して勢力を築き、大順2年(891年)、成都によっていた西川節度使陳敬瑄と監軍の田令孜らを殺し、ついに唐から西川節度使に任ぜられた。ついで、東川の地を、天復元年(901年)には山南の地をも併合し、ほぼ四川全土を統一した。


903年、蜀王に封ぜられたが、朱全忠が梁国を建てたのに呼応して、自ら帝号を称し、大蜀国を建て都を成都においた。


即位編集

天祐4年(907年)に唐が後梁に滅ぼされると、後梁の支配を嫌い、皇帝を称して元号を天復と改め、国号を大蜀と定めた。後世の史家は前蜀と呼びならわしている。


天然の要害である地理条件と、塩や鉄といった重要資源を豊富に産出する経済条件を利用し、在位期間中は国内の安定に力を注いだ。農業振興と水利事業を推し進め、「与民休息」の政策を実現した。また、多くの文人が平和を求めて前蜀に移動し、彼らを保護する文化振興政策も実行している。しかしその反面、国内への監視に注意を払い、「尋事団」と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺した一面も有している。


918年、72歳で没した。


別名・表記ゆれ編集

王建


関連タグ編集

五代十国 前蜀 建国者


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