相反する概要を書くのも心だろ
ホロライブ屈指のドルオタであるかなたは、ガッキーこと新垣結衣の大ファンであると公言しており、以前から「ガッキーが結婚したら配信三日休む」と話すほどだった。
しかし2021年5月19日、新垣結衣が星野源との結婚を発表。ホロメンのみならず日本全土に驚きを与えたこのニュースを受け、かなたは配信の枠を立てる。
それが、ひたすらに肉を殴り続ける配信である。
「まぁやっぱりさぁ……あの~、推しの幸せって自分の幸せだから……なんだろう、推しが幸せになることってなんか全然そんな……それ自体はもちろん嬉しくて……推しだって人間なんだし心があるんだから~、それはもちろん、幸せになってほしいって思ってて……」
最初の方こそどこか割りきっていたが、次第に葛藤していた気持ちが爆発、某金獅子もかくやなスピードで肉を殴り始めた。
「それはそれこれはこれなのぉ!」
「推しの幸せは僕の幸せわかってる!!ガッキーが結婚して幸せで笑顔でいてくれるのは何よりも幸せ!!それはわかってんだよ!!!」
「でも!!相反する気持ちを持つのも心だろ!!」
「相反する気持ちを持つんだよ!!」
「ガッキーが誰か一人のものになった、それは事実なんですぅ!!僕は……!みんな知ってるか!?『SWITCH』っていう、こ、今年の一月に発売された『SWITCH』っていう雑誌を知ってるか!?知ってるひといます!?ガッキーと星野源さんが……なつ……仲睦まじく!手を繋いでいる表紙の雑誌!!これは僕はamazonで買いました!これは僕はもう……~~~~!!」(言葉にならない悲鳴)
「自分の!部屋に飾ってたんだよー!!でも……ずっとなんとなくは思っていた……なんとなくこの二人はもしかしたらカップルなのじゃないかって……(声にならない怨念)……肉が頷いてんだけど……おめぇ僕の気持ちがわからないのに頷いてんじゃねぇぞ簡単にぃ!!あぁーーーーーーーーっ!!もぉぉーーーーーっ!!この気持ちがわかってたまるかよお前みたいな肉にぃぃぃぃぃ!!」
……等々、優生思想じみた叫びをあげながら肉を殴り数々の名言を残した。
特にこの『相反する気持ちを持つのも心』という発言は多くのファンから共感を得ている。
相反する考察を書くのも心だろ
『結婚が喜ばしいのに喜べない』
『好きなのに嫌い』
『ひとりになりたいのに誰かにいてほしい』
『行きたいのに行きたくない』
『あれが欲しいのにいらない』
上で挙げた5つの事例のように、人は心の中に「前向きな気持ち」と「後ろ向きな気持ち」という相反する気持ちを同時に持つことがある。
この記事を見てくれているへい民の皆さんには、かなたのように極端とまでは行かずとも上のような思いをしたことはあるだろうか。
ある方はあるだろうし、ない方はないだろう。
かいつまんで話すが、今回のかなたのように「ひとつの対象に、相反するふたつの気持ちを同時に抱くこと」を、心理学用語で『アンビバレンス』と呼ぶ。
しかしこれは、決して恥ずべきものではないのだ。
そもそもアンビバレンスという言葉は、ドイツ語のアンビヴァレンツ(ambivalenz)に由来し、元々はスイスの精神医学者ブロイラーがつくった造語である。
ブロイラーはアンビバレンスを精神分裂病のおもな症状と考えていたが、その後、精神分析で有名なフロイトが度々、病的でない心の状態を説明するのに用いた。
つまりアンビバレンスは病気ではない。
ではなぜ正反対の感情が心に湧いてしまうのか?
そこには『元々大好きな人を嫌うような「そもそも自然である場合」』と『ひとりになりたいのに誰かにいてほしいような「本音を隠している場合」』の2つがある。
それどころか、それそのものが自然な心の状態であったり、本当に言いたいことへのヒントが隠されている場合もある。
言ってしまえば、今回のかなたは前者の『元々大好きな人を嫌うような自然な場合』にあたる。
実は、大好きな人に対してある時をきっかけに嫌悪感を抱いてしまった時、人はその心の状態に混乱してしまうことが往々にしてよくある。
今回のかなたで表すなら『ガッキーが好き、けれど自分を結婚という形でルラギッタガッキーが嫌い』ということになるのである(あくまでイメージです)。
しかし、そのどちらもかなたにとって正しく、そのどちらも尊重されるべき気持ちなのだ。
ところが、なぜ「大好きなのに大嫌いなんだ」と自分の心模様に混乱した時、アンビバレンスという心理状態が着目されて、それ自体に悩まされてしまうのである。
これがかなたが肉叩き配信中に叫んでいた言葉の裏の心境と思われる。
(ただしこれはあくまでも心理学に則って考察した場合である。もしかしたらかなたの心境は全然違うものだったかもしれないので、あくまでも参考程度に受け取ることを推奨する。)
相反する対策を出すのも心だろ
さて、ここで気になってくるのが、もし『皆さんがかなたのような事態になった場合、どうしたらアンビバレンスな心理を乗り越えることができるのか』ということ。
だが、上でも書いたがアンビバレンスは病気ではない。
つまり「治す」という観点でそれを見ると自分のなかにあるアンビバレンスな心を責めてしまうことになりかねない。
そのため、「治す」のではなく「うまく付き合っていく」「向き合う」といった視点で見ていく必要があるのだ。
それは「ふたつある気持ちを受け止める」ということ。
人はアンビバレンスな感情を抱いた時、どちらかひとつの感情を悪いものとして裁き、無意識下に押し込めてしまうことがある。
しかし押し込めた感情は決してなくなることはなく、それどころかその人の意識・言動に影響を与え続けてしまうのである。
例えば、心に好きと嫌いがあって嫌いを押し込めた時、その人の前で笑顔でいようとしてもふとした瞬間に露骨に嫌な顔をしてしまったり、嫌味を言ってしまったり。
そのような心の状態に翻弄され、葛藤し続けると、それが原因となって神経症になってしまうこともある。
つまり、そもそもそれが自然である場合の苦しみとは、本来それでいいのに自分の気持ちがふたつあることを自分で赦せず、責めてしまうことなのだ。
「ふたつある気持ちを受け止める」とは、まずアンビバレンスは自然なことなので、その自分を責めないでいいということ。
要するに、自分の闇の一面を拒絶せず抱きしめてあげることが大切なのだ。
今回のかなたの例で見ていくと、大好きなガッキーが結婚したことでまずかなたが傷ついた。
もうひとつ付け足すと、嫌いという感情を持った自分を責めてしまったのは『推しであるガッキーを悲しませたくないというかなたの優しさ』ではないだろうか(あくまでイメージです)。
その気持ちをすべて赦して、認めてあげること。
するとアンビバレンスを責めていた状況から次第に解放されるようになる。
自分のなかに正反対の気持ちがあったっていい。その自分を赦して、認めて、そう思った自分を愛してあげることが、相反する気持ちによるモヤモヤからの脱却なのではないだろうか。
相反する余談を書くのも心だろ
かなたが肉を殴る中で放ったこの発言は、かつてとあるテレビ番組のインタビューに対してとあるニキが言い放った「でも幸せならOKです」という名言を歪めたものとされる。
確かに発言自体は似ているので、ある意味ではそうなのかもしれない。
こうしてガッキー事件をなんとか割り切ったと思われていたが、『BDSP』でライバルに名付ける際にリスナーから星野源を提案されてトラウマを掘り返されてしまい、発狂しながらライバルに「げんほしの」と命名したり、さくらみこから恋ダンスを披露されたときは普段の態度をかなぐり捨ててキレ散らかしている。
まだまだガッキーの呪縛からは逃れられなさそうである。
ホロライブのリスナーには、推しメンが卒業などのとんでもない宣言を決め込んだ際に、自分の相反する思いを吐き出すためにこの言葉を引用するケースが結構見られる。
やっぱつれぇわという気持ちは、ホロメンもリスナーも一緒なのだろう。
相反する動画を見るのも心だろ
有志が描いてしまった伝説の手描き切り抜き。かなたにとっても思い出深い出来事だったためなのか、たまに行う手描き切り抜き視聴配信では必ずこの切り抜きを見ている。
相反する項目を作るのも心だろ
幸せならOKです:彼女の様子に、この発言を思い浮かべたリスナーも多かったとか。
リラックス、カウンセリング:もし今回のかなたのように何かを通して自分の気持ちが相反してしまっていて苦しいと感じたら、一旦そのことを忘れ、純粋に別の何かを楽しんでみてはどうだろうか。あるいは一度考えるのをやめ、他のことでリフレッシュするか、カウンセリングなどを受けて心に余裕を持たせるという選択肢もある。いずれにしても、何事にもあまり根を詰め過ぎないのが大事なのである。
天道総司:劇中で人は人を愛すると弱くなる…けど、恥ずかしがる事は無い。それは本当の弱さじゃないから。弱さを知ってる人間だけが本当に強くなれるんだ」という名言を放っているが、穿った見方をすればまさにかなたのこの叫びへの解答の一つという考察もできるかもしれない。
やっぱつれぇわ・かなたの心境を一言で表すとこれ。