石上国盛
いそのかみのくにもり
左大臣贈従一位・石上朝臣麻呂の娘で、藤原朝臣宇合に嫁し、広嗣と良継(宿奈麻呂)を生んだ。
夫の宇合を含む藤原四子の相次ぐ死、息子の広嗣による九州の乱により、藤原式家は大きな打撃を被るが、家刀自としての国盛を精神的主柱としてよくこれを耐え忍んだ。
宝亀年間に良継を中心とした式家主導体制が構築されたのは、良継とその異母弟たちの団結の結果であるが、そのまとまりが築かれたのは忍耐の時期だったろう。また、石上宅嗣の協力は、彼が国盛の甥(良継の従兄弟)という関係が端緒と見られる。
『尊卑分脈』藤原広継(広嗣)項に「母左大臣石川磨女、従五位下国咸大眉」と見え、『公卿補任』天平神護二年藤原宿奈麻呂(良継)項に「母左大臣石川磨女、従五位下国盛大眉」とある。また『公卿補任』神護景雲四年には「母左大臣石上朝臣磨女、従五位下刀自」とある。
和銅七年頃の生まれである広嗣、霊亀二年生まれの良継の祖父にあてうる左大臣の石川磨は存在しないため、石上磨が正しいと判断される。
これらは「母左大臣石上(朝臣)磨女、従五位下国盛大刀自」から誤記したものと見られる。
生年は宇合よりやや遅いと推測して、持統九年~文武元年頃。
『続日本紀』天平勝宝元年四月に、無位から従五位下へ叙された女官に石上国守が見え、天平宝字四年五月には従五位上へ昇叙している。前者は聖武天皇と光明皇后の東大寺行幸に供奉したとき、後者は光明皇太后が危篤状態になった直後であり、光明子に仕えていたものか。
没年は不明。
弟もしくは兄で、中納言まで昇る石上乙麻呂は、彼女や甥たちを訪ねてしばしば式家にやってきたらしい。その中で藤原百川(雄田麻呂)の母である久米若女と出会い、やがて土佐配流に至る。
若女が下総へ流されている間、少年時代の百川の面倒を見ていたのは国盛と考えられるが、心中複雑だったろう。