HY戦争
えっちわいせんそう
ホンダとヤマハが1970年代末~1980年代初頭に起こしたバイクの販売競争。
単なる競合に留まらず、互いに手段を択ばない総力戦であったことから戦争と呼ばれる。
メイン画像は、きっかけの一つとなったヤマハ・パッソル。
経緯
新たに主婦層をメインターゲットとした「ファミリーバイク」需要を開拓する。
翌1977年、バイク業界2位のヤマハはパッソルを発売して対抗。
ロードパルを越える大ヒットを記録し、ファミリーバイク市場は拡大の一途を辿った。
これをチャンスと見たヤマハは、バイク業界1位の座を奪取すべく攻勢に出る。
社長がホンダの打倒を宣言し、社員を鼓舞。
ホンダと繋がりのある役員も退任させ、ファミリーバイクの増産体制を構築した。
しかし、業界1位の意地があるホンダも簡単には屈せず応戦。
以降、原付を中心として過剰な車種展開と不当な営業行為による乱売が続いた。
悲鳴を上げたスズキの鈴木修社長(当時)が両社に仲裁を申し入れるも、聞き入れられることは無かった。
結末
当時のバイク業界は混沌を極めたが、このような状態が長続きするはずもなかった。
1982年頃、アメリカの景気後退がきっかけとなり、ファミリーバイク市場が一気に縮小。
乱売の為に作り貯めた大量のバイクたちは不良在庫となり、特にヤマハは200億円という巨額の赤字を計上して経営危機に陥った。
ここに勝敗は決し、ヤマハ社長がホンダに敗北宣言をすることで終結した。
ヤマハ程ではないにしろホンダも痛手を負い、更に無関係だったスズキも競争に巻き込まれた結果、100億円の赤字を生み、同じく無関係だったカワサキもとばっちりを食い、稼ぎ頭であるアメリカから一時撤退する羽目になった。
この競争は後にメディアにより「HY戦争」と名付けられ、企業間競争の悪例として今なお語り継がれている。