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Su-24

すーどゔぁーっつぁちちとぅぃーりぇ

スホーイの可変翼機。元はSTOLが目的だった。爆撃機として使われ、アフガン侵攻で実戦投入された。
目次 [非表示]

NATOコードネームは「フェンサー(Fencer)」。

非公式愛称は「チェマダーン(чемодан、スーツケース)」


爆撃任務だけでなく空中給油任務にも使われる。

胴体左右に機外燃料タンクを、胴体下部にUPAZ-1/1Aバディ給油ポッド(Su-33等と同じもの)を装着し、プローブアンドドローグ方式で給油を行う。


序章:西にパクリと言われながら編集

この機は西側から「F-111のパクリ」と言われ続けてきた機体である。並列複座のコクピットに可変翼といった見た目から共通点が多い、とされてきたのである。

ソビエト軍部はこれを「同じような目的の機体だから、似るのは当然」とコメントした。


だが考えてみよう。F-111は空海軍の「綱引き」に見舞われた戦闘機である。両睨みした中途半端な要求仕様で設計され、最後には海軍が離脱したのだ。ソビエトでも同じような経緯があったとは信じ難い。


おそらく、本当に似ているだけなのだ・・・。


「フェンサー」完成までの軌跡編集

核兵器完成編集

1949年8月29日、ソビエトで初の核実験が成功し、これで米ソ共に核兵器の実用化に成功したが。だが初期の核爆弾は実際の戦場で使うには大きく、重すぎたので限りがあった。以来、米ソともに核爆弾の小型化には血道をあげ、ソビエトでは1953年に初めての実用戦術核爆弾RDS-4「タチアナ」を完成させた。


これは直径1m、重量1200kgにまで小型化されたもので、それまでの核兵器と違って戦術機への搭載も可能になった。これ以来、戦場での核兵器はアメリカだけの専売特許ではなくなったのである。


「あちらにあるもの、こちらに有らず」編集

これで米ソとも同等の威力を示したかに見えたが、事態はそう上手く運ばなかった。

1953年当時のソビエト空軍には、戦場で核兵器を搭載し、敵防空網を強行突破して爆撃を敢行する戦闘爆撃機が無かったのである。


当時ソビエトが持ちえた最新爆撃機にはIl-28「ビーグル」があったが、この機はF-86に比べても低速(最大速度876km/h)で、戦場で見つかったら逃げ切れずに撃墜されるであろう事は目に見えていた。55年には同規模で、より高速のYak-26爆撃機が初飛行していたが、超音速でのエルロンリバーサル解消のために四苦八苦した挙句、10機が製造されたに留まった。


かといって、当時の主力戦闘機(MiG-17MiG-19MiG-21)はどれも直径1m・重量1.2tのRDS-4を搭載する余裕がなく、そもそも強度で一番有利な胴体中央部に搭載用意が無かった。1960年には初めてのジェット戦闘爆撃機Su-7Bの生産が始まったが、これも胴体中央に搭載部は無かったし、搭載するための物理的余裕にも乏しかった。電子機器の類も貧弱で、全天候性能にも欠けていた。


54年のソビエトでは、それまでより高性能な戦略爆撃機Tu-16「バジャー」爆撃機が部隊運用を開始していたものの、一方アメリカでは55年にF-105が初飛行を遂げており、より小型・軽快な戦闘機でも核攻撃を可能にしていた。速度の面では爆撃機よりも戦闘機の方が絶対に有利である。この点「超音速戦術戦闘爆撃機」という分野では、ソビエトは大きく後れをとっていたのだった。


プロイェクト6編集

その頃、スホーイ設計局では先述のSu-7Bの可変翼発展型Su-17「フィッター」から派生したS-28・S-32を試作し、能力を向上させる研究を行っていた。しかしSu-7以来の旧式設計では最新鋭電子機器を詰め込もうにも余裕が少なく、新たな全天候型戦闘爆撃機が思案されていた。これがコードネームS6で、のちにSu-24となる試行錯誤の始まりであった。しかしこの時は肝心の電子機器の方が完成せず、これはモックアップ審査まででお蔵入りとなった。


1964年、ソビエト空軍は『低空を超音速で巡行し、防空網を突破して核攻撃を行うSTOL戦闘爆撃機』を求めた。スホーイ設計局ではSu-15「フラゴン」迎撃戦闘機(T-58)の設計を流用し、これを戦闘爆撃機として最適化したT-58Mで臨んだ。こうして完成したSTOL機T6-1Yak-38と同じくリフトジェットを搭載しており、Su-15似のダブルデルタ機であった(実際にSu-15の試作機から改造)。


しかしこの方法では重爆装を施した戦闘爆撃機が、しかも垂直エンジンでSTOLするまでは困難だった。垂直エンジンは胴体燃料タンクの容量も犠牲にし、航続距離では大いに見劣りする結果になった。しかも垂直エンジン作動時から通常飛行への変移時も不安定であり、推進エンジン2基・垂直エンジン4基による「6発STOL機」は放棄されることになった。


こうして製作されたのが、垂直エンジンによる推進力ではなく、可変翼による空力でSTOLを目指したT6-2Iであり、1970年1月17日に初飛行した。T6-1からは垂直エンジン収容部をそっくり爆弾倉・燃料タンクに替えた機となった。以降、同様の試作機が計7機製作され、その7機目完成と共にSu-24の型番が与えられた。


派生型編集

NATOではSu-24を、主に外観から区別してフェンサーA~Cと分類したが、これらは生産に伴うマイナーチェンジであり、ソビエト側では特に区別はしていない。


Su-24「フェンサーA」編集

最初の生産型。最大8tもの爆装が可能。


Su-24「フェンサーB」編集

尾部にドラッグシュートが装備された。


Su-24「フェンサーC」編集

電子機器を更新。


Su-24M(Су-24М)編集

後期量産型Su-24。1978年に量産化、1983年に実戦配備した。

機首に地形追随レーダー、『PNS-24M航法/攻撃システム』搭載、引き込み式の空中給油プローブも追加。固定翼部の兵装パイロン取り付け部の主翼上面のフェンスに『チャフ/フレア・ディスペンサー』を装着し、垂直尾翼両脇の後部胴体上面にも『チャフ/フレア・ディスペンサー』装備、胴体下面の中心線には『UPAZ-Aバディ式給油用ポッド』搭載が可能。NATOコードネームは「フェンサーD」。


Su-24MR「フェンサーE」編集

戦術偵察機型で、そのために一切の兵器・攻撃用電子機器は排除してある。


Su-24MP「フェンサーF」編集

Yak-28PPの後を継ぐ電子偵察機型。

対地攻撃用電子機器を廃してELINT機材を搭載しており、R-60短距離AAMや23mm機銃Gsh-6-23を自衛用に備える。




結章:こうして「そっくりさん」は出来上がった編集

実際のところ、Su-24の開発経緯はF-111のそれとはまったく異なるものであった。


当初考えられていたのはYak-38と同じリフトジェットを搭載したSTOL機T6-1であり、Su-15似のダブルデルタ機であった。さらに遡ればスホーイはSu-15にリフトジェットを搭載したT-58VDを試作しているし、製作されなかった最初の計画案S6はSu-7をベースにしている。1953年に再開したスホーイ設計局は共通胴体の後退翼型とデルタ翼型を試作し、前者がSu-7、Su-17と続く戦闘爆撃機ファミリー、後者がSu-9、Su-11、Su-15と続く迎撃戦闘機ファミリーとなったが、後に完成した「フェンサー」とは似ても似つかないこれらのファミリーが構想の源流にあったのだ。


また当時ソ連ではリフトジェット式のSTOL・VTOL機に期待をかけており、MiG-23も当初は可変翼ではなくリフトジェットになるはずだった。が、構造的な欠陥が問題となり実用化されたのはYak-38のみで、それ以外は実験止まりに終わっている。リフトジェット&ダブルデルタのT6-1も胴体設計を生かしたまま可変翼にしたT6-2Iに変更され、これが好調とあって結果的にF-111に似た外観の機体が出来上がったのだ。


つまり、F-111クラスの戦闘爆撃機をソ連(スホーイ)なりに思案した所、持ち前の派生型開発力から既存のシリーズを活用し、さらに独自性を出そうと(?)リフトジェットによるSTOLを目指した「リフトジェット・デルタ翼」を目論んでいたが、リフトジェットに起因する必然的な欠陥から試行錯誤するうちに結局「可変後退翼」が最適解だという結論に辿り着いた、ということである。


「同じような目的の機体だから、似るのは当然」だったのだ。


参考編集

(wikipedia)

Sukhoi Su-24

Su-24 (航空機)

RDS-4

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