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概要編集

本籍は揚州丹陽郡秣陵県。陶基の子。兄に陶璜、弟に陶抗。子は陶湮・陶猷。


では鎮南大将軍・荊州牧の地位にあった。


その官職から、呉末期の地方官ではトップクラスの地位にあったと思われるが、実績はほとんど残っていない。

280年、西晋杜預らの攻勢に対し最終決戦に挑もうとするが、晋軍の「破竹の勢い」に兵たちが怯え、一晩のうちにその大多数が逃げ出してしまったという逸話の持ち主。


その後は寡兵で出撃したとも降伏したともいわれ、その最期は不明。

ただ、『隋書』「経籍志」によると、「散騎常侍陶濬」の文書集が2巻あったが、既に失われたと記録されている。西晋は呉の降伏後、洛陽に連行した呉の主立った重臣を散騎常侍に任じたが、陶濬はその一人だったのだろう。

また、彼の息子や兄たちは晋に仕えてそれなりに出世している。むしろ、業績は一度は西晋から交州を奪い返し、呉の滅亡後も交州牧に留任した兄・陶璜の方が上であり、『晋書』に列伝が立っているのも陶璜の方である。


ジャーンジャーンジャーン編集


以上のとおり、これだけならば三国志のマイナー武将の一人として知る人ぞ知る武将だったのであるが、そんな彼を天は、というか、コーエーは見捨てなかったのである。




陶濬

これ。これである。これが陶濬である。

三國志Ⅸにおいて、特筆する内容のない彼に与えられたこんな特筆するべきところだらけのグラフィックが与えられてしまったせいで、三国志ファンに大ブレイク。一躍人気者の座に躍り出ることとなった。

天国の彼は泣いているかもしれないが、これもまた運命であろう。たぶん。


さらに余談編集


後漢末の群雄の一人である陶謙は、本籍はとなりの揚州丹陽郡丹陽県。呉の韋昭らが編纂した『呉書』(陳寿『三国志』の「呉書」部分とは別物)では、陶謙が比較的好意的に描かれているが、その理由として、陶基・陶濬らと陶謙が同族であるために韋昭らが配慮したという説がある。果たして真相は……?



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