本記事では主に1989年~2004年までの球団の歴史について記述する。
成績
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1989年 | 4位 | 杉浦忠 |
1990年 | 6位 | 田淵幸一 |
1991年 | 5位 | 田淵幸一 |
1992年 | 4位 | 田淵幸一 |
1993年 | 6位 | 根本陸夫 |
1994年 | 4位 | 根本陸夫 |
1995年 | 5位 | 王貞治 |
1996年 | 6位 | 王貞治 |
1997年 | 4位※1 | 王貞治 |
1998年 | 3位※2 | 王貞治 |
1999年 | 1位 | 王貞治 |
2000年 | 1位 | 王貞治 |
2001年 | 2位 | 王貞治 |
2002年 | 2位※3 | 王貞治 |
2003年 | 1位 | 王貞治 |
2004年 | 1位※4 | 王貞治 |
※1:日本ハムファイターズと同率4位
※2:オリックス・ブルーウェーブと同率3位
※3:大阪近鉄バファローズと同率2位
※4:レギュラーシーズンは1位だったが、プレーオフで2位の西武ライオンズに敗れた。
略史
平和台球場時代
1988年、南海電気鉄道から大手小売業のダイエーに球団が売却され、本拠地も大阪から福岡に移転した。
この年に本塁打王を獲得した門田博光は福岡行きを拒否し、同じ年に阪急が身売りしたオリックス・ブレーブスに移籍した。監督は前年に引き続き杉浦忠が続投する。
新たな本拠地の平和台球場は、かつてクラウンライター・ライオンズの本拠地で、1979年に埼玉に移転して以来10年ぶりに福岡に球団が帰ってきたことから、福岡の野球ファンは歓迎を示した。
しかし、当時のホークスは低迷期であり優勝はおろか、1977年を最後にAクラスにも届かずにいた。
新体制で臨んだ1989年は5位に終わり、杉浦は監督を辞任。後任には田淵幸一が就任した。
90年はダイエーになって初の最下位に沈む。この年オフに門田がホークスに復帰する。
91年は4位、そして92年は5位に終わり、田淵は無念の解任。門田も現役を引退した。
福岡ドーム時代
93年は広くなった本拠地に対応しきれず最下位。
この年のオフに根本はかつて監督をしていた西武ライオンズとの大型トレードに着手した。主力打者だった佐々木誠ら3人を放出し、西武から秋山幸二ら3人を獲得した。
94年は5位に終わり根本は辞任するが、この年入団した小久保裕紀に加え、オフには西武から石毛宏典と工藤公康が入団し、ドラフトでは城島健司・本間満・藤井将雄らを獲得するなど、近い時代の優勝を感じさせた。
そして95年より王貞治が監督に就任。
優勝への期待が高まったが、95年は5位・続く96年は最下位に終わる。
96年には熱狂的ファンが王に生卵を投げつける事件が発生した。(通称「生卵事件」。)
この年のオフにはドラフトで、井口忠仁・松中信彦・柴原洋ら7人を指名する。
97年にはプロ野球脱税事件・98年にはスパイ疑惑が起こるものの、オリックスと同率で3位になり、20年間続いたBクラス連続記録に終止符を打つ。
そして1999年、南海時代の1973年以来、実に26年ぶりとなるリーグ優勝を飾る。さらに福岡を本拠地とする球団では、1963年の西鉄ライオンズ以来36年ぶりとなる。
日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝1敗で破り、1964年以来実に35年ぶりとなる日本一を成し遂げる。
MVPに輝いたのは秋山幸二で、西武時代の1991年以来2度目となった。
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↓ダイエー時代の初代ユニフォーム(通称・ガッチャマンヘルメット)。モデルは天海春香。