概要
日本の固有信仰である神道と、外来の仏教信仰が混淆し、一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象である。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
仏教伝来時には対立も起こったが、次第に双方が相手を守護する存在を説いたり、相手は自身の化身であるとする解釈が起こり、神仏関係は緊密な協力し合う仲となった。とくに密教、怨霊信仰や修験道、熊野信仰、八幡信仰などが代表的。神と仏は一体として神仏と呼ばれた。また、寺には鎮守社として神社が建てられ、神社には神宮寺として寺が建てられ、これらを合わせて寺社と呼ばれた。
なかでも、奈良時代から鎌倉時代にかけて成立して中世日本文化に浸透したのが、「和光同塵」や「本地垂迹説」である(五味文彦『躍動する中世』)。「和光同塵」とは、仏がその威光を和らげて世俗に交わり、教えを広めるために神の姿をとって表れたという思想である。「本地垂迹説」とは、神に詣でることはその本来の姿(本地)である仏に詣でることに同じだという説である。五味によれば、天応元年(781年)、桓武天皇の即位に際して八幡神に大菩薩の尊号が送られ、『春日権現験記絵巻』には承平三年(937年)菩薩号を求める春日神の託宣が伝えられている。
分離
しかし明治以降に、「王政復古」「祭政一致」を実現させ、国家の近代化による国民の統制をはかるために、神道の国教的立場が大きくなった。
すると、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別し宗教を明確化させるため「神仏分離令(正式には神仏判然令)」が叫ばれた。
その後、神道か仏教か曖昧なものが廃され、弁天信仰は神社となり、豊川稲荷は寺とされるなど、明確に分けられるようになった。
元々は西洋諸国のスパイを入国させないようにキリシタンを取り締まるため、宗教を統制するものであった『寺請制度(てらうけせいど)』のもとで、政治への癒着から汚職に走り腐敗した一部の寺院に苦しめられていた民衆も、この運動に加わった。
修験道に至っては一時期のあいだ信仰自体が禁止されたが、後に僧・修験者たちの明治政府への嘆願によって、『天台宗修験派』という仏教宗派の形で活動を認められる。
その後
明治以降、それまで続いた神道と仏教の繋がりが多く失われた。
しかし、神仏習合によって築かれた文化は日本文化の大きな一部となっているため、完全に分離することはほぼ不可能で、上述の信仰は現在も続いている。神社や寺院には所によって神仏習合時代の名残があり、現在でもそれは感じることができる。
信仰一覧
余談
一般に「神仏習合」というと日本特有の宗教現象と思われがちだが、必ずしも日本に限ったものではない。
たとえば、仏法の守護者として知られる帝釈天や阿修羅王、迦楼羅王は、元々はヒンドゥーやアジアに散らばる古い土着の神々として信仰されており、仏教の長い歴史の中で「(仏教にとっての)悪神として知られた神々が改心して仏法に帰依し、仏法の守護者となった」神々も少なくないのである。
仏法に帰依する異形の神々には、そういった隠された背景があることも考慮するべきであろう。
また、日本と同じく仏教の信仰国であるタイ王国の仏教は、日本と同じくタイ独自の精霊信仰である『ピー(ผี)』と習合し、同じく信仰国である台湾の仏教は道教や土着の信仰と習合した独特なものとなっており、日本の神仏習合に似た現象が起こっている。
別名・表記揺れ
関連書籍
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外部リンク
- 神仏習合(Wikipedia)