第61・62・63代内閣総理大臣。従一位大勲位。日米安保体制を基軸とした国際貢献を果し、ノーベル平和賞を受賞。
実の兄に岸信介が存在、親類も政治家等が多い。
来歴
東京帝国大学卒業後、民間企業に入社予定だったがその話がお流れとなったためしぶしぶ鉄道省に官僚として入省( 後に紆余曲折を経て運輸省となる )。この時点では兄とは異なり華々しい活躍はなかったものの、そのため公職追放されずにすむ。
鉄道総局長官などを歴任後、昭和23年に退官。
政治家として
民主自由党に入党、第2次吉田茂内閣の民間人として官房長官に任命される。昭和24年には衆議院議員となる。自由党を経て自由民主党への参加を拒否、鳩山一郎引退後に高校の同級生であった池田勇人の手引きで入党。電気通信大臣や郵政大臣を歴任。
昭和39年11月、池田勇人の病状悪化による退陣をうけ、第62代内閣総理大臣に指名された。政権発足早々の日韓国交正常化から、沖縄返還で花道を飾って昭和47年7月に総辞職するまで、七年八ヶ月に及ぶ長期政権であった( 連続政権としては最長記録である )。
政権発足にあたって佐藤は、所得倍増を唱え「寛容と忍耐」のソフト路線をとった「経済の池田」に対して、「政治の佐藤」を打ち出した。池田の低姿勢を批判し、先送りされた懸案事項遂行のためには野党勢力との対決をも辞さずといった「剛」の姿勢であった。
この「政治の佐藤」という自負心には、高度成長によって経済大国にのし上がりつつあった中で、国内外にわたる新しい政治的枠組み構築への意欲が込められていた。対外的には日米安保体制、国内的には二大政党制を目指すために行われた五五年体制をめぐる問題であった。
また、日韓基本条約の締結、国民祝日法の改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の策定、非核三原則の表明( ただし、アメリカ合衆国との密約により沖縄への核兵器の持込を認めていた )などを行った。また、沖縄の日本変換もこの内閣のときであった。
昭和47年、田中角栄を後継として総理大臣を退任、この際、記者会見にて新聞記者とけんかし、ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていたなどと朝日新聞に記述されることとなった。
昭和49年、ノーベル平和賞受賞。
なお、内閣においては黒い霧事件などの不祥事が多発した。また、長期政権の不満から地方においては革新側の知事などの首長が誕生、自民党も落ち目になっていく。
昭和50年5月19日に脳溢血で倒れ、同年6月3日に死去。享年74歳。
追記
- 性格は忍耐を持った人物だと思われやすいが、実際には短気で冷たく頑迷な人間性だった。実際の写真を見ても、表情が硬い。特に兄であった岸信介の人間的器の違いをよく愚痴られた。
- 他人に終生、笑顔を見せたことがなかったといわれている。
- 内閣総理大臣の就任の状況が兄とよく似ており、双方とも総裁選で敗れたがその人物が病気により総理大臣の座が転がり込んだことである。田中角栄はのちに、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている
- 宮内庁職員の無礼を「俺は総理大臣なんだぞ!!」と怒鳴っり、物事がうまくいかなかった場合。手元にあったものに当り散らして壊すことは日常茶飯事だった。
関連項目
佐藤B作:佐藤栄作をもじった名前の俳優
帝都高速度交通営団:鉄道省時代に東京地下鉄道と東京高速鉄道を無理矢理合併させて作った営団。