概要
第61・62・63代内閣総理大臣。従一位大勲位。日米安保体制を基軸とした国際貢献を果し、ノーベル平和賞を受賞。
実の兄に第56・57代内閣総理大臣岸信介がいる他、親類に政治家が多い。
来歴
明治34年3月27日、山口県熊毛郡田布施町に生まれる。
東京帝国大学卒業後、民間企業に入社予定だったがその話がお流れとなったため、しぶしぶ鉄道省に官僚として入省。この時点では兄とは異なり華々しい活躍はなかったものの、地方へ左遷されていておかげで、戦後の公職追放を受けずに済む。
鉄道総局長官などを歴任後、昭和23年に退官。
政治家として
昭和23年3月、民主自由党に入党し、山口県連合会支部長に就任。同年4月、第2次吉田茂内閣において民間人閣僚として内閣官房長官に任命される。昭和24年には衆議院議員となりキャリアを重ねる。昭和30年、保守合同により自由党が日本民主党と合流し自由民主党となった際、自民党への参加を拒否し一時期無所属となるも、鳩山一郎引退後に高校の同級生であった池田勇人の手引きで昭和32年2月に自民党に入党。総理大臣となった池田の下で電気通信大臣や郵政大臣を歴任した。
昭和39年11月、池田の病状悪化による退陣をうけ、第62代内閣総理大臣に指名・任命された。政権発足早々の日韓国交正常化から、沖縄返還で花道を飾って昭和47年7月に総辞職するまで、七年八ヶ月に及ぶ長期政権を率いていくことになる(連続政権としては最長記録である)。
政権発足にあたって佐藤は、所得倍増を唱え「寛容と忍耐」のソフト路線をとった「経済の池田」に対し、「政治の佐藤」のイメージ戦略を打ち出した。池田の低姿勢を批判し、先送りされた懸案事項遂行のためには野党勢力との対決をも辞さずといった「剛」の姿勢を示した。
この「政治の佐藤」という自負心には、高度成長によって日本が経済大国にのし上がりつつあった中で、国内外にわたる新しい政治的枠組みを構築することへの意欲が込められていた。対外的には日米安保体制、国内的には二大政党制を目指すために生まれた55年体制をめぐる問題があった。
内閣の成果として日韓基本条約の締結、国民祝日法の改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の策定、非核三原則の表明(ただし、アメリカ合衆国との密約により沖縄への核兵器の持込を認めていた)などを行った他、自身の最後の花道として、昭和47年5月に沖縄の日本返還を成し遂げた。
昭和47年、田中角栄を後継として総理大臣を退任。この際、記者会見にて新聞記者と喧嘩し、ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていたなどと朝日新聞に記述されることとなった。
ちなみに、佐藤時代に黒い霧事件などの不祥事が多発した。また長期政権への不満から、地方において革新勢力の知事などの首長が誕生、徐々に自民党の勢いに翳りが出始める。
昭和49年、ノーベル平和賞を受賞。
昭和50年5月19日に脳溢血で倒れ、同年6月3日に死去。享年74歳。
人物像
- 性格は忍耐力のある人物だと思われやすいが、実際には短気で冷たく頑迷な人間性だったという。実際の写真を見ても表情が固いことが多く、特に兄の岸信介とたびたび比較され、人間としての器の違いをよく愚痴られた。
- 彫が深い顔立ちで、大きな目が特徴的だったことから「政界の団十郎」と言う渾名がついた。その大きな目で睨まれると誰もが戦慄を覚えたと言う。
- 総理大臣就任時の状況が兄とよく似ており、双方とも総裁選で敗れたが、対立候補又は前任者が病気により辞退したことで自身に総理大臣の座が転がり込んでいる。後に田中角栄は、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ。」と語っている。
- 宮内庁職員の無礼な態度に対し「俺は総理大臣なんだぞ!!」と大声で怒鳴ったことがある。また、物事がうまくいかなかった場合は、手元にあったものに当り散らして壊してしまうことは日常茶飯事だった。
- 大のマスコミ嫌いで、特に朝日新聞を毛嫌いしており、日記で名指しで批判していたほどであった。また週刊誌の記事に対し秘書に抗議するよう命じたこともある。新聞に否定的な一方で、存在感を高めつつあったテレビのことは「ありのままの自分を映してくれる」として好意的であった。先述の内閣退陣時の記者会見でも、「僕は偏向的なメディア(新聞)が嫌いだ」と発言し、怒った新聞記者達は会見場から出て行ってしまった。
関連項目
佐藤B作:佐藤栄作をもじった名前の俳優。
安倍晋三:第97代内閣総理大臣、現首相。佐藤の孫にあたる。新聞・テレビよりもインターネットを重宝するところなど、佐藤に似た一面がある。
帝都高速度交通営団:鉄道省時代に東京地下鉄道と東京高速鉄道を合併させて作った営団。現在の東京メトロ。