警察予備隊
けいさつよびたい
おぼろげな警察軍から水面下における軍隊創設の準備組織へ
とはいえ武装はアメリカ軍の兵器を用い、軍隊に近いほど精強であり、朝鮮戦争開始時には日本から派出される駐日部隊の空白を埋めるべく、旧日本陸軍の軍人における大佐級の人員の公職追放を限定的に解除して組織構築が開始された。
司令部の迷走
予定ではGHQにて顧問将校の位に在った元陸軍参謀本部作戦課長服部卓四郎元大佐( 陸軍士官学校34期、ノモンハン事変で作戦の積極拡大したりガダルカナルで虚偽の報告により兵を大量に餓死させたりし無能扱いされるがGHQの受けは良かったため、「大東亜戦争全史」を執筆したり再軍備のための研究機関である「服部機関」を作ったりしている )及びその部下たち数名が予備隊司令部に配置され、服部元大佐は予備隊司令官として登用される予定であったが、GHQでは民生局局長コートニー・ホイットニー( 弁護士、軍人。戦後はマッカーサーの側近として活躍、日本国憲法の草案作成を指揮したことでも知られる )、日本政府からは吉田茂ほか政権中枢から頑強な抵抗があり、服部大佐率いるグループが日本の再軍備に関与する事はいったん消えた。
理由
これは彼の率いたGHQ内の顧問集団“服部グループ”を含めた旧帝国陸軍系軍人台頭への危惧、先述のホイットニーの上申とマッカーサー自身に対する服部大佐への不信感、また、服部大佐自身がG2( GHQ参謀第2部 )部長であるチャールズ・ウィロビー( 太平洋戦争においては情報参謀、最高位少将。ちなみに反共主義者として知られる )に対しGHQ顧問時代に提出した再軍備計画が「当時の日本の国力では賄いきれない」上に「旧軍とほとんど変わらない統帥形態であった」ことがマッカーサーの構想した“西側規格の軍事システム( 連合国式参謀システムの構築 )”にそぐわないとされた為だと言われ、公職追放の解除を行わないことにより彼らを排除したことによる。
準備組織から実力組織へ
その後警察予備隊は、統率権が総理府( 現:内閣府 )から1952年8月1日に発足した保安庁( 防衛庁を経て現:防衛省 )に移管され、組織は変遷され保安隊を経て昭和29年防衛庁の設立とともに陸上自衛隊となり、それに伴い公職追放によって公務から締め出されていた元日本軍兵士たちに対する追放解除の範囲が広がり、また自衛隊発足以降は佐官・尉官の幹部クラスも入隊できるようになっていった。