大谷吉継
おおたによしつぐ
概要
父は南近江半国守護・六角義賢の家臣で後に浅井長政に仕えた大谷吉房なる武士とされるが詳細は不明。母は大政所(秀吉の母)と北政所(秀吉の妻)のいずれかの所縁の女であると伝えられている。家紋は「対い蝶」。
同じく豊臣家臣である石田三成とは親友の間柄であり、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは病を患った体を推して西軍の武将として参陣。小早川秀秋の裏切りにより苦境に立たされ、僅かな兵で大軍を相手に大奮戦し、ついに敗戦すると切腹して果てた。
生涯
出生~秀吉臣従
永禄2年(1559年)に近江(滋賀県)で生まれたとされていたが、近年発見された吉田神社の神主の日記・『兼見卿記』には天正20年(1592年)に28歳であるとの記事があることから、現在では永禄8年(1565年)の生まれであるとの説が有力となっている。
天正始めに豊臣秀吉の小姓となり、賤ヶ岳の戦いや九州攻めで活躍。
天正13年(1585年)に刑部少輔(刑事訴訟に関する官職)となり、「大谷刑部」とも称された。
天正17年(1589年)、越前敦賀に5万石を与えられ、港の整備や城下の街造り、廻船商人と協力して京・伏見・大阪との物流ルートの確保をすすめた。
天正18年(1590年)、小田原城攻めや奥州平定に従い、8月、東北方面の検地を担った。
文禄の役
天正20年(1592年)4月、秀吉の命により加藤清正、福島正則、黒田長政、小西行長ら第一陣が朝鮮に渡海。同年6月、朝鮮奉行として石田三成、増田長盛とともに渡海、7月、漢城に入城。
文禄2年(1593年)3月、明との講和を開始し、5月、石田三成、小西行長らとともに明からの使者を伴い帰国、交渉を開始するが行長と明との交渉に偽りがあったことが発覚、交渉は決裂する。
慶長2年(1597年)2月、小早川秀秋を総大将として14万の軍勢が渡海。しかし、朝鮮軍・明からの援軍に加え義勇軍が日本軍に抵抗、補給が滞った加藤清正は蔚山城で軍馬を食糧とする悲惨な籠城戦を強いられるなど、各地で日本軍は苦戦を強いられ、疫病に苦しむこととなった。朝鮮に渡海した軍勢が日本に帰国したのは、秀吉死去後の慶長3年(1598年)11月末だった。
秀吉死後~関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)6月に秀吉の死去し、石田三成と徳川家康との対立が厳しくなる。吉継は家康に接近し、政権内の混乱収拾に当たった。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐に出陣。吉継は討伐軍に合流する前に石田邸を訪れ、双方を仲裁しようとしたが、逆に三成から挙兵の計画を持ちかけられた。これに対し吉継は決起は無謀だと反対したが、親友の頼みを受け、敗戦覚悟で協力。総大将に毛利輝元の擁立を提案し、西軍首脳として挙兵に加わった。
関ヶ原の戦いでは(病で目を患っていたため)輿に乗って参戦し、東軍の藤堂高虎と戦ったが、小早川秀秋らの裏切り(諸説あり、秀秋の記事参照)により自軍は壊滅し、圧倒的な兵力差を前に奮戦した末に自害した。その首級は介錯を務めた家臣・湯浅隆貞の懸命の工作により敵軍の手に渡ることのないように隠蔽されたとされ、関ヶ原には二人の墓が並んで祀られている。(湯浅隆貞は藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に討ち取られたが、その折に吉継は自身の崩れた顔を恥じていたので、自分の首を差し出す代わりに吉継の首を埋めた場所は誰にも口外しないで欲しいと隆貞は頼み高刑も承諾した。
その後、高刑は吉継側近の隆貞を討ち取ったなら吉継の首の在り処も知っているだろう、と家康に詰問されたが、高刑は知っているが隆貞と約束したので家康の願いといえども、如何なる罰を受けようとも答える訳にはいかないと返答。感心した家康から罰を受けるどころか逆に褒美を貰ったという話がある)
病気について
大谷吉継の一般的なイメージと言うと、「ハンセン病を患っており、頭を白い頭巾で隠していた」と言うもの。現在のハンセン病はごく軽度のうちに服薬で完治する病気であるが、当時は治療法がなかったため、顔や体の部分が変形に至るまで悪化する例が珍しくなかった。
しかし現在の最新の研究では、この説についてはむしろ否定的な専門家が多い。
と言うのも、彼がハンセン病だと言う記述は江戸中期、死後100年以上経った後の史料にしか出て来ておらず、生前の史料でそのような記述は一切無いのである。白頭巾についてもやはり江戸中期に描かれた絵姿によって広まったもの。よって、後世の創作である可能性が高いとされている。
ただし、ハンセン病以外の病を患っていたのは事実。特に目を患っていたとされ、関ヶ原の頃には視力をほぼ完全に失っており、移動には輿を使ったとされる。
江戸中期にハンセン病と言われるようになった経緯については、彼が当時「白頭」と言う署名を使っていたため、これを「白頭巾」と取ったのではないか、そして「白頭巾を被っていた&病を患っていたのなら、ハンセン病だったんじゃ?」と連想したのではないか……と言う説が有る。
ただそもそも、この「白頭」は「そうと読める」と言うレベルである上、この署名を使っていたのはバリバリの現役時代。重篤なハンセン病ならそこまでの仕事は出来ない。
挙句、病に倒れた後、1度回復して仕事に復帰している(その後再発)。ハンセン病ならそんな簡単に治ったり再発したりはしない。
これらの資料から、現在ではハンセン病説は疑わしいとされている。
しかし、創作作品においては大谷吉継の白頭巾姿はもはや定番と呼べるほど馴染み深いものとなっており、大概の作品で登場する吉継をモデルとするキャラクターは従来通り白頭巾などで顔を覆い隠した姿で描かれていることが多い。
かつては勘違いからこのような描写がされていたが、ハンセン病説の否定が広まった後もキャラクターの個性を強調するという目的のもと「分かっていて」やっているという作品が大半である。
2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』においても病を患う描写はあるが、歴史考証担当がハンセン病説を否定しているため頭巾姿ではない。関ヶ原での武装姿として従来の白頭巾で顔まで覆った姿を披露しているが、これもあくまでも大谷吉継の頭巾姿に馴染みの深い歴史ファンへのサービスといった趣が強い。
逸話
吉継にまつわる有名な逸話の一つとして、秀吉が開いたとある茶会に出席した際、当時すでに病を患っていた吉継が廻ってきた茶碗に口をつけた(または茶の中に膿が落ちた)後、皆がその茶碗を飲むことを嫌がったにも関わらず、三成唯一人が躊躇わずその茶を飲み干し、それがきっかけで三成と親交を深めていったというものがある。ただし、これはかなり真偽の怪しい話である上に、最初の逸話では秀吉が飲んだとされており、二重の意味で史実とは言い難い。
関ヶ原で敗走し自害する際に、裏切り者である小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と呪詛の言葉を遺して切腹したというが、これもやはり真偽不明。そもそも、「首が敵の手に渡らないように密かに自害した」と言う説と矛盾する。
ただ、民衆の間では当時から広く流行した説であり、秀秋が関ヶ原の戦いの2年後に変死を遂げた際は吉継の祟りと噂されたという。あるいは、秀秋が変死した後に吉継の祟りと言う理由が後付されて生まれた説と言う可能性もあるだろう。
古書『絵本英雄美談』によれば、彼は一刀流剣術の開祖である、剣豪の伊藤一刀斎とは師弟関係で、彼から剣術を指南されていたという。