平成7年(1995年)1月17日午前5時46分に発生した「平成7(1995年)兵庫県南部地震」によって引き起こされた災害(震災)。20世紀に発生した国内の自然災害では戦後最大である。
概要
日本政府における呼称は「阪神・淡路大震災」(平成7年2月14日閣議了解)。
同じ被災した兵庫県でも明石市のみ神戸市でも淡路市でもないため「兵庫県南部地震」の名称が多用される。
震源は兵庫県南部の淡路島北部の明石海峡沖と推定され、M7.3の直下型地震が発生、兵庫県神戸市・淡路島を中心として多大な被害を出した。
この地震が発生して以降、日本列島は地震の活動期に入ったといわれている。
本震
震源の深さは16km、規模はMj(気象庁マグニチュード)7.3/Mw(モーメントマグニチュード)6.9となっており、日本で初めて大都市直下を震源とする大地震で、気象庁の震度階級に震度7が導入されてから初めて最大震度7が記録された地震。
気象庁の観測点における震度
震度 | 都道府県 | 市区町村 |
---|---|---|
7 | ※計測震度計の適用外 | ※計測震度計の適用外 |
6 | 兵庫県 | 神戸市中央区 洲本市 |
5 | 滋賀県 | 彦根市 |
京都府 | 京都市中京区 | |
兵庫県 | 豊岡市 |
※震度4以下は省略
現地調査による震度
震度 | 都道府県 | 市区町村 |
---|---|---|
7 | 兵庫県 | 神戸市(東灘区・灘区・中央区・兵庫区・長田区・須磨区) 西宮市 芦屋市 宝塚市 津名町 北淡町 一宮町 |
6 | 大阪府 | 大阪市西淀川区 豊中市 池田市 |
兵庫県 | 神戸市(垂水区・北区・西区) 尼崎市 明石市 伊丹市 川西市 淡路町 東浦町 五色町 |
※震度5以下は省略
地震のメカニズム
兵庫県南部地震を起こした断層は「六甲・淡路島断層帯」で、断層帯南部の淡路島北側の江井崎から伊丹市中心部付近まで南西から北東に伸びる淡路区間と呼ぶ約50kmの直下型地震、逆断層・横ずれ断層型の地震。この断層のずれは約10秒間に断層全体に広がって大きな揺れを引き起こしたと推定されている。
余震活動
本震以後に1995年で2360回、1996年と1997年がともに100回台と次第に回数が減少し、規模も小さくなっていた。最大余震は本震と同日の7時34分に起こったM5.4の地震で、奈良で震度4の中震を観測した。
その後、2013年4月13日には淡路島付近でM6.3の地震で、淡路島で最大震度6弱を観測する地震と2018年6月18日には大阪府北部でM6.1の地震で、大阪府で最大震度6弱を観測する地震が発生している。
前兆現象
989年終盤から1995年にかけて近畿地方の広域に「急激な圧縮から伸びに転じる」地殻歪み変化が生じていた。それがきっかけでこの地震を誘発させた可能性があると指摘する専門家もいる。
静穏化
「地震空白域」とされ、1992年後半から北摂・丹波山地全体で静穏化現象が起きていた。
前震
前日に明石海峡付近を震源とするM3.3の地震が発生し神戸で震度1の微震を観測したのを始まりに16日中に計4回の小さな地震が起きていた。翌日の大地震の前震だったと見られている。
宏観異常現象
関西地方を中心として様々な異常現象が見られたという一部の人からの報告があり、その例は下記のとおりである。
など多数の異常現象が発覚した。しかし、これらは科学的な根拠がない。
被害や影響
平成23年(2011年)現在、確認されている死者・行方不明者は計6,437名。狭い地域に被害が集中する(一部大阪府でも被害は出たが、大半は兵庫県内)直下型地震としては、被害規模は昭和23年(1948年)の福井地震や安政2年(1855年)の安政江戸地震をしのぎ、近代以降で最大の被害を出した。
死者の多くは建物の倒壊に巻き込まれたもので、古い木造住宅での死亡者が特に多かった。また神戸市長田区では大規模火災も発生。
被害についてはその後の東日本大震災の方がはるかに大きいものの、地震の象徴として頻繁に使われる「高架一区間丸ごと横倒しになった阪神高速」に代表されるようなビルや高速道路の倒壊など当時「絶対」とまで言われた近代建築の安全神話が次々に崩壊したインパクトの強さは、いまだに大きい。
原因としては地震が少ない地域とのことで、これに関して設計を考慮されていない建物が多い事も被害を大きくした。今では当たり前となっている、エキスパンションジョイントや耐震(構造)スリットがない、もしくは適切な形で採用された建物も少なく、倒壊した旧耐震の建物も多くが耐震補強がされていなかった。これにより柱や建物同士の接合部を中心に大きな被害を残す結果となった。阪神高速道路の高架については地震にも考慮されていたが、設計時には予想していなかった強大な力と、下から突き上げる揺れが倒壊の引き金となってしまった。
ただし、被害そのものは近代的なビルより一般の家屋の方が多く、戦後から高度成長期にかけて作られた古い住宅が次々と倒壊し、発生が早朝というのも相まって犠牲となった人は、家具の転倒よりもこの下敷きになった方が多い。宮城県沖地震を受けて作られた建築基準法(所謂新基準)に基づいている昭和56年(1981年)以降の家屋は、比較的被害が少なかったとされている。
また、津波はごく小さいもののみが発生したため津波被害はほぼ皆無であった。ちなみに、1854年(嘉永7年)に発生した南海トラフ地震に分類される安政南海地震の場合は、徳島県の沿岸部に約10メートル前後という波が甚大な被害をもたらし、紀伊半島でも約8メートルの高さを記録した。大阪でも発生から約2時間で湾内で2メートルの津波が河川部までに押し寄せて、船舶と船内にいた人々に多大な被害をもたらした。
特に大阪の場合はその前の宝永地震の際に家財を船に乗せて逃れようとしたところに津波により多数の死者を出した歴史があり、その時の教訓を全く生かせなかった事を後世に伝える文が碑に刻まれている。しかし、ようやく教訓として思い出されたのが本災害ではなく東日本大震災以降であった。この地域に関しては、地震が発生した場合は揺れの規模によらず、速やかに沿岸・河川部から離れるようにする事が鉄則である。
被害をより大きく拡大させた原因として、当時は政府や自治体の災害に備えた連絡体制も不備がまだまだ大きく、地震情報を最初に把握する気象庁ですら震源に最も近い神戸海洋気象台からの震度情報が回線トラブルのため気象庁などに入ったのは地震発生から30分以上経過してからだった。インターネットも普及していなかった時代だったこともあり政府や関係各所への情報伝達も遅かった。
このため当時の村山内閣が災害の重大性を把握したのがかなり遅く、外国からの支援申し込みを当初は断ってしまうという事態も起こった。
自衛隊の災害派遣要請が遅れたり、政府の対応が遅れるなどして救助体制の構築が不十分だったという課題も残り、各方面に後々まで様々な禍根を残すことになる。村山首相も「なにぶん初めての事ですので」という失言をしてしまって袋叩きにされ、後の社会党(社民党)の凋落の種を撒く結果となった。
震災後、重い瓦屋根が倒壊の原因となるという恐怖感から、被災地域では瓦屋根の住宅が極端に減る、頑丈な鉄骨・鉄筋の住宅が増えるなど、町並みが変貌しつつある(先述した通り、古い家屋が倒壊したのは構造的な脆弱さが原因であり、瓦屋根は本質的な問題ではない)。
震度改正と新たな変化
後に本震災をきっかけにして、それまでの震度階級を震度5と6については弱と強に分けて細分化し、震度7も地震後の現地調査で判定するのを震度計による計測に変更、更にそれまで気象庁などが設置していた地点に限定していた地震観測ポイントを自治体などが設置したものにも拡大(約3倍増)するなどの改善が図られるなど、あらゆる分野において地震を筆頭にした自然災害に対する対応が変化する契機へとつながった。
更にこれにより、当時は一般的ではなかった活断層という学問上の専門用語とその意味が世間一般に広まり、その分布が地震被害が起こりうる地域の特定要素として、震災以降に改めて各地で調査が行われる事となった。
関連タグ
神戸新聞社:震災で本社ビルが被災した。
阪神電気鉄道:車庫倒壊等で多数の車両が使用不能となった。
神戸高速鉄道 神戸市営地下鉄 駅構内に甚大な被害を出し、地下鉄安全説を覆した(前者は駅が陥没した)
山陽新幹線:始発が午前6時だったため、奇跡的に人的被害はなかったが、橋桁落下等で復旧に約2ヶ月半を要した。
明石海峡大橋:当時建設中であったが、震災の影響で全長が自然に1m伸びてしまった。
大阪府北部で地震:震災発生から約23年後に発生。
南海トラフ巨大地震:今後、発生が懸念されている巨大地震。