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日英同盟の編集履歴

2019-01-15 21:29:42 バージョン

日英同盟

にちえいどうめい

1902年に調印・発効された日本とイギリスの軍事同盟。『日英攻守同盟条約』とも呼ばれる。二回更新され、第一次大戦後まで日本の外交基盤となった。

日英同盟 (締結日:1902年1月30日)

条項の概要

清韓二国内で

  • 締結国の一方が他国と交戦した場合、好意的中立を維持すること
  • 締結国の一方の交戦国が複数になった場合、もう一方の国が友軍として参戦すること
  • 有効期間を五年とすること

締結の経緯

 日英同盟は『日英攻守同盟条約』とも呼ばれ、日本側代表の林董特命全権公使と、イギリス側代表のヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリスランズダウン侯爵とが、ロンドンのイギリス外務省において調印したことで締結された。

 当時、極東進出のために南下政策をとって、朝鮮半島へ勢力を伸ばしていたロシア帝国を意識して締結された。もしロシアに半島まで侵攻されれば、日本は自国をとても守りきれないため、安全保障も兼ねて朝鮮の独立と清国・朝鮮の近代化を促そうとしたが、それに清国が反発したことで朝鮮半島の統治権を巡った日清戦争が勃発した。

 日本の勝利により朝鮮は大韓帝国として日本の保護下に入ったが、戦争終結の翌年6月3日にモスクワでロシア帝国と清国の間でロシア側はアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー外務大臣とセルゲイ・ヴィッテ財務大臣、清側は李鴻章欽差大臣が立ち会って行われた「露清密約(日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合、互いに防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成を目的とした秘密条約で、同時に清に対しロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面があった)」が締結され、これによりロシアは満洲と北中国全域の支配体制をより盤石なものとし、関税をかけるのも時間の問題となっていた。

 更に追い討ちをかけるように北清事変(義和団の乱)が起こり、これに乗じてロシアは満州を軍事占領。後に撤兵の約束をしたが、なかなか撤退しようとせず、むしろ朝鮮半島にまで触手を伸ばすようになっていった。

その後辛亥革命により清朝が滅亡。これによりアヘン戦争以降のイギリス一国による清国の半植民地状態も崩壊し、欧米列強が次々に大陸に進出していった。

 こうした経緯により、ロシア帝国のアジア進出を警戒し、阻止するという共通の目的と、義和団の乱でイギリスからも大変評価された柴五郎中佐の活躍により対日感情が好転していたこともあり同盟が結ばれ、日露の軍事衝突が不可避となったときに、イギリスが日本の後盾となることで、ロシアの極東での南下を支持していたフランスドイツの介入を防ぐことを狙いに同盟が締結され、日露戦争第一次世界大戦において絶大な効力を発揮することとなった。


第二次日英同盟 (締結日:1905年8月12日)

条項の概要

  • 清国に関する両国の既得権益と商業機会均等を保証すること
  • イギリスのインド帝国での権益と日本による韓国保護国化を相互に承認すること
  • 清韓印三国のいずれかで締結国の一方が一国以上と交戦した場合、もう一方の国が参戦すること
  • 有効期間を十年とすること

 第二次日英同盟はポーツマス条約とほぼ同時に締結された。主な変更点は、相互承認する権益の範囲の拡大と参戦義務の強化の2点。また特定の敵国は想定していない。


第三次日英同盟 (締結日:1911年7月13日)

 第二次日英同盟の内容とほぼ同じだが、締結国の参戦義務の対象となる交戦国から特例としてアメリカ合衆国を除外。

 その後、第一次世界大戦後の1921年に、日英の中華民国での利益対立とアメリカの反発を受けて、満期により同盟解消。


近年

 近年、イギリスはヨーロッパ連合(EU)からの離脱が決まり、それにより中国との関係を重視していたデーヴィッド・キャメロン首相率いる政権が崩壊。新たに発足したテリーザ・メイ首相率いる新政権は、対中国政策を白紙に戻して中国から距離をおくようになり、日本との関係を重視するようになった。


 メイ首相は、中国が主導するのアジアインフラ投資銀行(AIIB)にアメリカの反対を押し切って最初に参加するなどした、キャメロン前政権の「英中蜜月路線」の修正を進めており、媚中派のジョージ・オズボーン前財務相を更迭し、2017年5月に行われた中国の現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」首脳会議への参加も見合わせている。日英外交筋はイギリス側のこうした思惑を「中国との連携関係は経済に限る」と分析しているという。


 2017年1月26日には、日英両政府は日本国自衛隊イギリス軍との間で、武器弾薬の相互提供など互いの物資を融通し合い、軍事作戦の後方支援を可能にする物品役務相互提供協定(ACSA)に署名し、協定が締結された。これは日本とイギリスが事実上『準軍事同盟国』になったことになる。


 日本がこの協定を締結した国は、アメリカオーストラリアに次ぎ3ヶ国目であり、欧州ではイギリスが初となる。

 更に日英両政府は、世界最高水準の戦闘機ミサイル『JNAAM』の共同研究をはじめ、互いにステルス戦闘機の技術に関する情報を交換する覚書にも署名している。


 更に、実はイギリスで1831年に創設された世界最古のシンクタンク『英国王立防衛安全保障研究所(英:Royal United Services Institute for Defence and Security Studies、通称:RUSI)』のアジア本部が、2012年に日本の東京に創設されている(通称:RUSI Japan)。

 こうした日英関係の深化から、「日英同盟の復活か」「21世紀の日英同盟」という声もあがっている。


 ちなみに、親日家で知られるイギリス人ジャーナリストヘンリー・S・ストークス氏によれば、第二次世界大戦前後の時代におけるイギリスには知日派が少なく、白人民族と有色人種民族の対等を訴えていた日本への理解が無く敵対してしまったために、かつてのアジアアフリカにおけるイギリスの植民地が日本との戦いを機にほぼ全て独立国家となり失われてしまい、大きく国力を落としてしまった苦い経験の反省から、戦後は日本に精通した外交官が育成されるようになったという。

 そうしてヘンリー氏をはじめとした日本に長く滞在するプロの知日派と見做されるイギリス人たちは、総じて日英同盟の破棄は間違いだったと全員が語っているという。


曖昧さ回避

本サイトにおいては『Axis Powers ヘタリア』のイラストが多い。そちらは島国同盟を参考。


関連タグ

日本史 世界史 明治 同盟 国際

北清事変(義和団の乱) 柴五郎

マルタ 地中海の守護神

日本 大日本帝国 イギリス

日露戦争 第一次世界大戦


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