生涯
1946年1月23日モスクワでユダヤ系ロシア人の一家に生まれる。1960年にはコムソモールに入団し、ソ連共産党に入党。モスクワ林業技術大学を卒業し、森林学、次いで応用数学を研究して、応用数学博士号を取得。1969年頃から研究員として管理研究所に勤務する。1983年にはソ連科学アカデミー会員となる。
オリガルヒへの道
1989年に、ヴォルガ自動車工場とイタリアのロゴシステムに関係する自動車販売会社「ロゴヴァズ」を設立して社長に就任する。ロゴヴァズは国の輸出奨励政策を利用し、自動車製造企業から輸出用の国産車を格安で仕入れ、それを輸出せずに公定価格で販売することで多くの利益を上げ、さらに国産車のみならず外国車の販売にも進出し、メルセデス・ベンツ、ゼネラル・モータースなどの公認ディーラーとなり、次第に富を蓄えていった。これを快く思わないロシアン・マフィアを中心にベレゾフスキーと敵対する者も多く、1994年に自動車が爆破されるなど、いくつかの暗殺未遂事件が起きている
しかし、ベレゾフスキーはそれらを物ともせず、事業を拡大し、大手石油会社シブネフチ設立に奔走し、同社を買収し事実上、支配下に置いた。また、アエロフロートなど、ロシア国内の優良企業の株式をタダ同然で取得することに成功した。
さらに各企業に融資するために金融部門では、アフトヴァース銀行、統一銀行をグループ傘下に収めた。
ベレゾフスキーが最も力を入れた部門の一つがメディア事業であり、テレビ・新聞・雑誌などあらゆる分野のメディアを買収し手中に収めたことで知られる。国営放送のロシア公共テレビ、民放のTV6、ロシア有数の経済誌であるコメルサント紙、ネザビシマヤ・ガゼータ、週刊誌アガニョーク、ヴラスティなどを次々に支配下に置き、恣意的な世論形成を行うようになった。
政界入り
1996年の大統領選挙では、ロシア共産党のゲンナジー・ジュガーノフは、エリツィンに一時僅差まで追い込んだ。同年のスイス連邦のダボス会議でジュガーノフは経済政策でソ連時代に戻ることはないと表明して欧米の政治家や財界人からも支持された。しかし、このジュガーノフの歓迎ムードに危機感を覚えたジョージ・ソロスはベレゾフスキーに行動を促し、エリツィン再選に貢献することとなった。この選挙をきっかけにベレゾフスキーを始めとするオリガルヒが政権内で台頭し、「ファミリー」と呼ばれる側近グループを構成していく。ベレゾフスキー自身も1996年10月にロシア安全保障会議副書記に就任し、チェチェン問題を担当する。1997年に汚職がもとで同職を解任されるが、1998年4月にはCIS執行書記に就任する。また、自分の影響力のある人物を政権に送り込み、政権運営に関与しエリツィン政権の「黒幕」や「政商」というあだ名がついた。
1998年9月にロシア金融危機の収拾のためにエフゲニー・プリマコフが首相に就任すると、政権の主導権を握ったプリマコフによって「ファミリー」に対し、圧力がかけられる。ベレゾフスキーも汚職を追及され、1999年3月にCIS執行書記を解任された。しかし、プリマコフの台頭を恐れたエリツィンがプリマコフを首相から解任し、ベレゾフスキーは間もなく復権した。1999年下院国家会議選挙で、政権与党「統一」の結成と選挙戦にはベレゾフスキーから大量の資金が流れたと言われる。また、大統領選挙同様、ORTを使い「統一」の宣伝を強力に推進し「統一」の勝利に貢献した。ベレゾフスキー自身もカラチャイ・チェルケス共和国の小選挙区から立候補し当選した。下院議員としては、第二次チェチェン戦争に反対の立場を表明していた。
ウラジミール・プーチン就任後
2000年3月の大統領選挙では、ウラジーミル・プーチンを大々的に支持するも、プーチンは逆に自分に忠実でないオリガルヒを潰しにかかるようになった。ベレゾフスキーは、プーチンに対抗して反対勢力を糾合しようとするが、一般市民の間で国賊扱いされ(※エリツィン政権の頃から、多くの市民はオリガルヒを嫌っていた。)敵の多かったベレゾフスキーは賛同者を得られず、同年7月下院議員を辞職。さらに2001年ベレゾフスキーは保有していたORTの株式49%を、ロマン・アブラモヴィッチに売却する形で放棄せざるを得なかった。ロシア最高検察庁は、アエロフロート資金の横領疑惑などでベレゾフスキーへの追及を強め、逮捕を恐れたベレゾフスキーはイギリスに亡命した。
イギリス亡命後
亡命先のイギリスではプーチン政権を批判し続け、2007年4月13日付けのガーディアン紙のインタビューでは「プーチン政権を武力によって転覆しなければならない」と発言し、ロシア連邦の反発を招いた。
また、2007年6月21日、ベレゾフスキーに対する殺人謀議容疑でロシア人1人がロンドン警視庁に拘束された。これは余談だが、前年に元КГБ将校で、イギリスに政治亡命したアレクサンドル・リトビネンコの毒殺事件が起こっいた。英国在住ロシア関係者による綿密な暗殺計画がある可能性が疑われたこともある。
死去
2013年3月23日、義理の息子であるエゴール・シュッペがFacebookにベレゾフスキーがイギリス国内で死去したことを発表。その後顧問弁護士も死亡の事実を認め、死因については自殺であったとした。かつては実業家として巨万の富を得たベレゾフスキーであったが、最近の生活は妻との離婚訴訟に関わる費用や慰謝料、さらにはロマン・アブラモヴィッチとの訴訟も抱えるなど多額の出費を強いられており、アンディ・ウォーホルの「赤いレーニン」などの美術品や、ロールス・ロイスなどを所蔵するコレクションを次々と売却するなど、資金繰りに腐心していたとおもわれる。
同姓同名の人物
ロシア連邦のピアニストに、ボリス・ベレゾフスキーがいる。当然ながら、本項でのベレゾフスキーとは一切関係ない。