悪路王
あくろおう
概要
悪路王とは、達谷窟の伝承に登場する架空の人物。古くは鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』「文治5年(1189年)9月28日の条」に記述される。
その中では、平泉で藤原泰衡を討伐した源頼朝が鎌倉へと帰る途中、達谷窟を通ったときに「田村麻呂利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と案内人から教わったと伝説化していた。
この『吾妻鏡』で記述された話が、お伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』や奥浄瑠璃『田村三代記』を通して東北各地の本地譚(地方伝説)に取り入れられ、坂上田村麻呂伝説が形成されていった。
よくある誤解
アテルイとの同一視
民俗学では坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと同一視する説もあるが、歴史学での悪路王は、歴史上の人物としてのアテルイの事蹟が反映された架空の人物と考えられている。
現存する史料のうち、歴史上のアテルイに関する記述は平安時代成立の『続日本記』と『日本記略』の2つのみで、アテルイと悪路王を安易に同一視することには賛否両論ある。
史実との混同
悪路王について最古の記述とされる『吾妻鏡』は編年体で書かれた将軍年代記であるため、頼朝が見聞きした内容まで、そのまま史実とは出来ない。
ただし悪路王の記述に鎌倉幕府による政治的意図があった可能性までは否定できない。
田村麻呂が死去した弘仁2年(811年)から、『吾妻鏡』で頼朝が達谷窟で悪路王の伝承を教えられた文治5年(1189年)まで、実に378年もの隔たりがある。
『吾妻鏡』は平安時代初期から鎌倉時代までの約400年の間に、東北地方でアテルイ(と田村麻呂)の事蹟が反映されて伝説化し、悪路王の伝承が誕生していた事を示す資料と捉えるべきである。
誤解の発信源
上記のようにアテルイと悪路王は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係でしかない。
アイヌとの混同、アテルイとの同一視、史実との混同などがされた背景には、アテルイ復権運動による郷土愛的な側面が指摘され、歴史上の人物としてのアテルイと伝説上の人物としての悪路王は別人物として考えるのがいい。
人物叢書『坂上田村麻呂』の著者である高橋崇氏の言葉を借りれば「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」。
解説
名前の由来
定説ではないが『鳴子町史』では、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせて衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされて、結果的にアテルイに破られ、数千人の戦死者をだして惨敗した。このことは『日本後記』に示されているが、そこには当時の道が如何に「悪路」だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由ともなったのではとしている。
伊能嘉矩説
民俗学者・伊能嘉矩は、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』が「悪路王に関する最古の記述」とし、「大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じることから本来はひとつの対象を指した」としている。
Wikipedia日本語版での悪路王の記事は、上記の伊能嘉矩による説を前提としたもの。「鬼」と「賊」にわけて物語を羅列しているだけにとどまる記事で、その内容は悪路王の伝承成立を検証している最新の論文や書籍から遅れている(Wikipedia日本語版「悪路王」、2019年8月3日閲覧)。
物語の中の悪路王
関連イラスト
関連キャラクター
『鬼切丸』
⇒悪路王