藤原保昌
ふじわらのやすまさ
プロフィール
生涯
右京大夫・藤原致忠の次男として生まれる。母は醍醐天皇の元明親王息女。藤原道長・頼通の有力な家司の一人。
摂津国平井(現在の宝塚市)に住んだことから「平井保昌」とも呼ばれた。
左衛門督・左馬頭などを務める一方、日向守・肥後守など九州の国守を歴任。
丹波守に任ぜられると、妻の和泉式部を伴って任国へ下った。その後は大和守(重任)、摂津守も歴任。79歳で死去。最終官位は摂津守正四位下。
藤原氏は将種でこそなかったが、保昌は「勇士武略の長」と評価された武芸の人物。そのため盗賊袴垂との説話が『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にみえる。
また、和歌や音楽もたしなんだ人で、『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。
説話にみる藤原保昌
袴垂と保昌
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に記載される有名な説話。
10月の朧月の夜に笛を吹きながら悠然と大路を歩く保昌の衣を奪おうとした盗賊の袴垂が、保昌の隙のなさに気圧されながら家まで連れていかれて衣を賜った。
なお後世に盗賊袴垂と保昌の弟・保輔が同一視されて「袴垂保輔」とされたが、説話研究が進んだ現在では別人と考えられている。
物語の中の藤原保昌
「酒呑童子説話」では、大将として源頼光と対等な立場で酒呑童子討伐をしている。
討ち取った酒呑童子の首を台の上に載せて都に凱旋し、帝をはじめ摂政や関白が叡覧したあと、宇治の宝蔵に首が納められると、武功を認められて頼光は東夷大将軍に、保昌は西夷大将軍に任命された。
上記のように、酒呑童子説話に大将として登場するのは、藤原氏でありながらも後世に武芸を評されていた事が大きく影響したのだろう。
鎌倉時代成立の『平家物語』巻6「廻文」に、「義仲は成長するにつれ、弓矢や太刀等の使い手として、上古の田村・利仁・余五将軍・致頼・保昌・先祖頼光・義家朝臣とくらべて遜色ないと、人々は噂した」とみえる。
さらに金刀比羅本『保元物語』「新院御所各門々固めの事 付けたり 軍評定の事」では、「古その名聞し田村・利仁が鬼神をせめ、頼光・保昌の魔軍を破りしも、或は勅命をかたどり、或は神力をさきとして、武威の誉を残せり」(原文)と、保昌は頼光とともに魔軍を破ったとみえる。
鎌倉時代には「古来の名将や武人といえばこの4人」として坂上田村麻呂、藤原利仁、頼光と保昌という共通認識があったと思われる。
また『保元物語』では史実を離れて、頼光と2人で鬼退治をした英雄として物語化している。
南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』に、「本朝の昔をたづぬれば、田村・利仁・将門・純友・保昌・頼光、漢の樊噌・張良は武勇といへども名のみ聞きて目には見ず」(原文)とある。
田村麻呂、利仁、頼光と並ぶのは鎌倉時代の文献と同様である。
このように時代を超えて頼光とともに優れた武人として軍記物語などで義仲、為朝、義経などの主役を引き立たせる役回りで語り継がれたことが、後に酒呑童子説話で主役のひとりとなり、保昌が人々に愛された要因のひとつとなった。