概要
966年~1028年1月3日(康保3年~万寿4年12月4日)
藤原兼家の五男。父・兼家や兄(藤原道隆・道兼ら)が相次いで没した後、兄・道隆の子・伊周は事件を起こし妹・中宮定子にかくまってもらっていた。定子の兄・伊周は父親の強引な人事により、道長よりも高い職についていた。しかし一条天皇は定子のいる所へ強制捜査の命を出し、伊周は捕らえられ、左遷された。
定子はそれで出家したが、前代未聞で中宮に居続け、世の人々の反感を買った。天皇の姉の藤原詮子(一条天皇の母)はこれでは世継ぎが産まれない(出家した定子が妊娠するなどは倫理に反する事だった)と嘆き、藤原元子などを新たに一条天皇の女御として入内させた。彰子はその後に入内し、中宮となる。これは、出家して中宮職を行えない定子に代わり「必然の一帝二后」処置だった。
そして、道長が藤原摂関家の全盛期を築いた。
◆人物評
『人物叢書 藤原道長』には以下のように評されている。
「(道長は)一条天皇とは決して対立的な関係ではなかった。(中略)一人で独裁的に権力を行使したこともない。天皇と皇后、摂関、さらに大臣以下の公卿が連合して政治にあたったというのが事実に近い」(「摂関期の国家」『新体系日本史1 国家史』)
(道長が)「内覧で過ごしたことは、周囲の事情をよく見きわめようとしたことの表れであり、(中略)謙譲の美徳ということもできよう」
長女・彰子を一条天皇の中宮(皇后と同位)に、次女・妍子を三条天皇の中宮に、そして三女・威子を後一条天皇(一条天皇と彰子の男子)の中宮とした。姉妹三人を中宮とした例はかつてなく、威子入内の宴の席で有名な「望月の歌」を詠んだと言われる。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
晩年は仏教に深く帰依。東大寺で出家した後、法成寺と言う隠居所を兼ねた寺院を建立させ、死ぬまでそこで暮らし62歳で死去。死因は癌とも後述の糖尿病ともいわれる。
摂関の地位は嫡子の頼通が嗣いだが、頼通の娘・寛子には後朱雀天皇の後嗣となる男子が生まれなかったため、摂関家とは血のつながりが薄い天皇の異母弟・後三条天皇(白河天皇の父)が即位し次第に摂関家の権力は揺らいでいく。
「御堂関白」と称されるが実際に関白に任ぜられたことはない(後一条天皇の摂政は務めた)。一条・三条両天皇は道長が政権を握った時期には既に成人しており、道長は太政官の首位たる左大臣の職位と内覧の権限で政権を掌握・運営した。
なお、日記(自筆本が現存)は後世「御堂関白記」と称され、1951年に国宝指定されている。2011年5月、ユネスコ世界記憶遺産へ推薦決定。
紫式部との関係
長女・彰子に仕えた女房・紫式部とは面識があり、既に『源氏物語』が世に知られていた彼女に物語の続きを度々催促していたとか。
余談
道長は記録に残る限り日本最古の糖尿病患者であると考えられている。これは当時の記録が糖尿病の症状に合致するため(加えて彼の家系に同じような症状が多いことも傍証となる)であり、そのため道長は国際糖尿病会議の記念切手の図案としてインスリンの結晶と共に描かれるという名誉、というか不名誉にあずかっている。
「御堂関白記」は、誤字や変な表記が多い事でも知られ、文字も割と汚い。これは道長だけでなく、九条流(藤原師輔(道長の祖父)の子孫)全般がそういう傾向にあったらしい。それゆえ「祐筆」という代筆を生業とする専門職が発達したのかもしれない。
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関白…本文にある通り、就任した事はない。