生没年 909(延喜8)年~960(天徳4)年
官位 正二位・右大臣
摂政・関白・太政大臣を務めた藤原忠平の次男。母は文徳天皇の子で右大臣を務めた源能有の娘・昭子。
経歴
950(天暦4)年、村上天皇の女御となっていた長女・安子の生んだ憲平親王が、大納言・藤原元方の女祐姫の生んだ広平親王を退けて立太子した(兄の実頼も娘の述子を入内させていたが若死にしていた)ため師輔は外戚としての地位を固め、以後子孫は摂関の地位を独占することとなった。
師輔自身は摂関職に就くことなく早死にしたが、息子のうち5人が太政大臣に、更にそのうち長男の伊尹が摂政、次男の兼通が関白、そして三男の兼家が摂政・関白に就き、その中から兼家の系統が嫡流となっていく。
著作に、日記『九暦』、『九条年中行事』、『九条殿遺誡』などがあり、家集『師輔集』には、女性との贈答の歌80余首が収められ、作歌は『後撰和歌集』以下の勅撰集に入集している。また『九条年中行事』を編んだことから、有職故実の流儀を確立したものとして、兄実頼の小野宮流に対し,九条流の祖とされることとなった。(国史大事典)