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西鉄ライオンズの編集履歴

2020-11-14 21:30:20 バージョン

西鉄ライオンズ

にしてつらいおんず

現在の「埼玉西武ライオンズ」の源流のプロ野球球団。

現在の「埼玉西武ライオンズ」の源流のプロ野球球団。

1951年、西鉄クリッパーズ西日本パイレーツが合併し誕生。オーナー企業は西日本鉄道、本拠地は福岡県福岡市平和台球場であった。

2008年に黄金時代、2011年に初期のユニフォームが復刻された。


球団史

西鉄の描いた九州からのプロ野球参戦、「神様仏様稲尾様」

1949年末、西鉄クリッパーズ福岡市に誕生。

戦前西日本鉄道(以下西鉄)は大洋軍(後に西鉄軍と改称、1943年に解散。大洋ホエールズ、後の横浜DeNAベイスターズとは無関係)という球団を経営していたことがあり、戦後の1949年年初にそれを復活させようとするが頓挫していた。また、西鉄は当初西日本新聞と共同で球団を設立しようとしたがそれができず、後に西日本新聞は単独で西日本パイレーツを結成している。

パ・リーグに所属していた西鉄に対し、セ・リーグ巨人戦などのドル箱を抱えていた西日本の方が人気・観客動員数で上回っていたが、西日本の上層部が経営の素人で経営悪化を招き、それを察知した西鉄側が早々に合併を提案。翌1951年からはチーム名を西鉄ライオンズに改称した。


合併初年度の1951年に巨人から三原脩を迎え、また合併元の西日本から主力選手を獲得。1954年南海ホークスとの激しい争いの末初優勝を決めた。

1956年に初の日本一。1957年も連覇し、さらに1958年は日本シリーズで稲尾和久が4連投4連勝の獅子奮迅の活躍で日本一に導き、見事3連覇を達成した。

その後も大下弘中西太豊田泰光仰木彬高倉照幸野武士軍団と呼ばれることになる名選手を擁した西鉄は常にAクラスを維持。1964年に一度Bクラスに転落した以外は安定した強さを誇った。


「黒い霧事件」による球団経営撤退

1967年が西鉄最後のAクラス入り。以降、成績が低迷する。さらに1969年永易将之八百長行為を行ったとして球界を永久追放処分にされる。この事件が発端となり「黒い霧事件」に発展。この騒動は球界全体を巻き込み、西鉄は当時の若きエースだった池永正明を含む3人が1970年シーズン中に球界を永久追放される(池永は後に復権)。このことで戦力と人気の低下に歯止めがかからなくなり、西鉄は1972年シーズンをもって球団経営から撤退。オフにチーム名を太平洋クラブライオンズと改称した。


順位の推移

順位監督
1951年2位三原脩
1952年3位三原脩
1953年4位三原脩
1954年1位三原脩
1955年2位三原脩
1956年1位三原脩
1957年1位三原脩
1958年1位三原脩
1959年4位三原脩
1960年3位川崎徳次
1961年3位川崎徳次
1962年3位中西太
1963年1位中西太
1964年5位中西太
1965年3位中西太
1966年2位中西太
1967年2位中西太
1968年5位中西太
1969年5位中西太
1970年6位稲尾和久
1971年6位稲尾和久
1972年6位稲尾和久

1956年までは8球団、1957年は7球団で、1958年以降は6球団。


関連動画

西鉄ライオンズの歌


作詞:サトウハチロー

作曲:藤山一郎


西鉄ライオンズ初年度の1951年8月に発表され、1958年には、日本シリーズ3連覇を祝して当時の主力選手達がレコーディングを行い、2番では豊田泰光がソロで歌っている。


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