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ドワイト・D・アイゼンハワーの編集履歴

2021-01-21 16:10:11 バージョン

ドワイト・D・アイゼンハワー

どわいとでびっどあいぜんはわー

ドワイト・D・アイゼンハワーとは、アメリカ合衆国の軍人であり政治家である。
第33代ハリー・S・トルーマン → 第34代ドワイト・D・アイゼンハワー → 第35代ジョン・F・ケネディ

生年没年 1890年10月14日~1969年3月28日

大統領任期 1953年1月20日~1961年1月20日


フルネームはドワイト・デビッド・アイゼンハワー。陸軍出身の政治家で所属は共和党。『アイク』の愛称で親しまれた。


概要

1890年10月14日、テキサス州デニソンに生まれる。家はドイツ系アメリカ人の家系で、アイゼンハワーは7人兄弟の3番目だった。生まれて2年程でカンザス州アビリーンに移住し高校卒業まで同地で過ごした。


高校卒業後、兄1人と共に大学進学を希望するも経済的理由で困難となった。そこで兄と交互に大学へ通う事になり、初年は兄が大学へ通い、アイゼンハワーはバター工場で学費を稼ぐ事になった。しかし、翌年になると兄がもう1年大学へ通いたいと言い出し、アイゼンハワーは再びバター工場で勤務する事にした。そんな中、友人から「軍学校なら学費がかからない」と言われた事で軍人に興味を持ち、工場を辞めて軍人になる事を決意した。


陸軍海軍両方の学校を受験し両方に合格した。ただ、海軍は年齢制限により入隊できず1911年に陸軍へ入隊した。1915年に学校を卒業すると、国内各地や領地で歩兵や戦車隊に所属してキャリアを積んだ。中でも、1922年から2年ほど赴任した領地パナマ運河地帯では上官のコナー将軍から軍人として多くの見識を学び、後の高い管理能力を養う上で重要な経験となった。コナーは後に『アイゼンハワーを作った男』と称されるようになる。また1916年には結婚もしており、公私ともに充実した日々を送っていた。


1930年代になると、後にGHQ最高司令官となるダグラス・マッカーサーの下で副官として働くようになる。後にマッカーサーが軍を退き軍事顧問としてフィリピンに移住するとアイゼンハワーも副官として指名され同行した。しかしフィリピンでの扱いはあまり良いものではなく、マッカーサーのミスを転嫁され叱られるなど不遇の日々を送る。転勤願いも出していたようだが、手放したくなかったマッカーサーにより握りつぶされていた。このワンマン上官の下を離れられたのは1940年の事だった。この頃、順調だった階級の上昇も少佐中佐で停滞し足踏み状態となった。


本土へ帰還したアイゼンハワーはその管理能力を評価され参謀として活躍し、師団、軍団、軍と徐々に規模の大きな参謀長職を歴任していった。しかし、上記のように勤務歴が国内や領地ばかりで実戦経験が無かったため、司令官職は回ってこなかった。


転機は1941年に太平洋戦争が始まてからだった。フィリピンでの経験値を買われて統合参謀本部に招かれると、そこで当時のマーシャル参謀総長からの信任を得る事に成功し、作戦部長として対ドイツ戦の作戦を立案した。作戦はイギリスを基地とした上陸作戦で、マーシャルはこれを承認しアイゼンハワーを指揮官としてヨーロッパ戦線へ送り出した。

1942年、連合国軍最高司令官としてヨーロッパに着任すると各軍の関係者との調整役として活躍し、自己主張の強い将軍達を説得して人員配分を調整した。また、「民主主義のための戦い」を自軍兵士に訴えかけ、赴任先の地元民への対応の改善や綱紀粛正を行った。戦果としてはモロッコアルジェリアへの上陸作戦(トーチ作戦)や対イタリア戦での勝利があり、これによりイタリアは降伏に至った。このヨーロッパ戦線での仕事の間にアイゼンハワーは大将に昇進している。マッカーサー時代にくすぶっていた頃からわずか4年のスピード出世だった。

1943年、ヨーロッパ戦線の各国軍を統括する連合国遠征軍最高司令部が発足する。当初英米首脳陣はマーシャルを最高司令官にしようとしていたが、マーシャルの流出にアメリカ統合参謀本部が反対したためアイゼンハワーが着任した。着任後は第二次世界大戦でも有名な戦いの一つであるノルマンディー上陸作戦を成功に導き、終戦による同司令部解散まで最高司令官を勤め上げた。なお、この戦果により1944年に元帥へ昇進している。中佐から元帥までの出世期間5年3ヶ月は陸軍史上最速クラスで、アイゼンハワーの軍人としての手腕の高さを物語っている。


終戦後は参謀総長に任命されアメリカ本国へ帰国した。1950年12月には対立するソ連率いる東側陣営への対抗軍事同盟として発足した北大西洋条約機構(NATO)の初代最高司令官となった。


1952年、大統領選出馬を理由に全ての軍務から退く。元々終戦直後から大統領選への出馬を待望されていたが、本人に政治家への興味がなく支持政党すら定かではない状態だったため実現していなかった。しかし、度重なる説得の末についに共和党から出馬することとなり、党候補指名戦に勝利し正式候補となった。同党からの出馬理由について本人は「(出馬時点で)20年間続いた民主党政権の変化を国が求めたから」としている。

本戦では自信の温厚な性格をアピールするため民主党候補をほとんど批判せず、「非政治家」という自身の出自を全面に出して戦った。結果、軍人時代の功績により国民から圧倒的人気を誇った事もあり、民主党候補に大差をつけ勝利した。


政権では反共産主義が色濃いニクソンを副大統領とする事でタカ派の支持も取り付ける事に成功した。これにより比較的安定した政権運営を行い、大統領任期として限界の2期8年を勤めきった。

外交面では枢軸国寄りの対応を行い戦後国際社会から距離を置かれていたスペインとの関係修復など第二次大戦の置き土産を処理した他、ソ連との冷戦最盛期だったためキューバとの断交や共産主義が優勢となったインドシナへの軍事支援強化など新たな戦争(冷戦)に関する動きも多かった。ただし、朝鮮戦争停戦協定の実現、英仏のエジプト軍事介入(スエズ危機)に対するソ連との協調など、最も殺気立った時期にも関わらず協調や平和的解決を重視していた。

国内政策については政府の介入しない経済による自由な発展を推す共和党の主義主張からあまり政策は打たなかった。しかし、自身が軍人時代に不便を感じた事がきっかけの国内幹線道路の整備をはじめ、世帯所得の20%増加など一定の成果は上げていた。


大統領退任後は元帥という階級の性質から軍に復帰したが、実際にはペンシルベニア州ゲティスバーグで農家として隠居生活を送り、亡くなるまで公の場にもほぼ出ることは無かった。


人物

自身の性格と軍人として戦争の残虐性を実感していたためか、大統領任期中は全体的に穏健な政策を内外で展開していた。一方、積極性にかける政策と後任がインパクトの大きいケネディだった事もあり、近年では「何もしなかった大統領」と評価される事も多い。


核兵器使用には極めて慎重な姿勢を貫いていた。戦時中の日本への原子爆弾投下についても、当時の大統領トルーマンに対して敗戦濃厚な日本への使用を直前まで反対し続けていた。

また、自身の大統領任期中には対共産主義勢力との戦いに苦戦していたインドシナに対し核兵器を使用するよう副大統領のニクソンが提案した事があったが却下している。


ゴルフが趣味で、大統領任期中も友好関係にある首脳とゴルフに行くなどしていた。


その他

軍服のジャケットを改良するよう指示した事があり、これにより袖口と腰が体にフィットした丈の短いジャケットが導入された。後に企業の制服など民間でもこの様式のジャケットが広まり、戦時中アイゼンハワー本人も愛用していた事もあって「アイクジャケット(アイゼンハワージャケット)」と呼ばれる服の一形態となった。


関連タグ

アメリカ合衆国 アメリカ合衆国大統領 共和党 軍人 アイクジャケット

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