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関白の編集履歴

2021-01-23 10:04:05 バージョン

関白

かんぱく

古代・中世にかけての朝廷官職 天皇の権限を代行して政治を行う

かつての日本の官職。天皇を補佐し権限を代行して政治を行う政務をつかさどる重職。つまりは宰相首相にあたる要職であるが、実権を持っていたかどうかは時代によって異なる。敬称は「殿下」。


語源は「(天皇の言葉を)関り(あずかり)白す(もうす)」という任命の詔による。その由来は、中国前漢王朝にて、民間で育てられていた宣帝が絶対権力者であった大司馬大将軍霍光に擁立されて即位した時、「上奏は全て霍光が関り白すようにせよ」と命じた故事にある。霍光が博陸候であったことから、関白の別名を「博陸」とも呼ぶ。引退した関白は太閤と呼ばれた。


天皇の幼少時に摂政の職にあったものが成人後に引き続きこの役職に着くことが多かった。また公卿というよりも天皇の代理人であるため、朝廷の最高意思決定機関である太政官の議政官(いわゆる陣定)には出席しない慣例があった。このような関白の政治権力の源泉は、内覧、すなわち「法案の最終稿を天皇に先んじて読むことのできる権利」である。仮に太政大臣であっても関白でない限りは通常この権利はなかった。つまり、どんな勅命を下すにしても事前に関白が承認していなければ握り潰されてしまうという仕組みである。このため、正式には関白に任じられずに、あるいは任じられる前から内覧の権利のみで関白と同等の権力をふるった者もいる。例えば摂関家全盛期と言われた藤原道長の政権は、長く道長が内覧兼左大臣として全権を掌握していた。道長は後年摂政・太政大臣にはなっているが、関白には就任していない。


時代が下ると武士のトップである征夷大将軍に対する公家のトップとしての意義が大きくなった。鎌倉時代以降、軍事だけでなく政治も武家幕府が左右するようになっていき、朝廷内でも幕府との連絡役である関東申次(鎌倉時代)・武家伝奏(室町時代以降)が強い権力を握るようになる。関白の役目は公家のトップとして幕府と伝奏らの意思決定に部分的な影響力を行使する方向に変化していった。


安土桃山時代に入り、天下の支配権を握った武家の豊臣秀吉が、関白相論を経て関白に就任した。秀吉は伝統的な関白の職務である天皇の代理人という権限に注目し、天皇に出させた勅命を代行することによって各地の大名を従わせる仕組みを取った(武家関白制)。しかしこの制度は秀吉の死とともに解体する。


江戸時代になると幕府のシンパが関白の職につき、朝廷の動きを制限するようになった。このため、明治維新が起きると太政大臣三条実美左大臣島津久光右大臣岩倉具視参議西郷隆盛大久保利通木戸孝允らが任じられたが、関白は征夷大将軍や大納言中納言とともに廃止された。


転じて、一家の亭主(夫)が家内の全権を握っている状態をさして「亭主関白」と称することがある。ま、実態は女房が(実権的意味で)関白な家の方が圧倒的多数だろうが…。



関連人物

藤原道長:出家後も実力者としてあったため、「御堂関白」と称されるが実際には関白に任じられたことはない。前述の内覧の代表例。

豊臣秀吉:関白を退いた後太閤として実権を握り続けた為、現代では「太閤」と言えば概ね秀吉を指す。当然ながら、ほかに「太閤」と言われた人物は多数いる。

豊臣秀次:秀吉の後継者として関白に任じられたが、切腹させられたため、夜な夜な辻斬りをしていたという話が流れ「殺生関白」の異名をつけられる。しかし、実際には秀次がそのような行状に及んだとされる史書はなく、秀次の非業の死を納得させるための俗説と思われる。

さだまさし:楽曲「関白宣言」の作詩・作曲・歌唱者。


関連タグ

摂政 藤原氏 平安時代 太閤 摂関家

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