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鬼一法眼の編集履歴

2021-01-30 01:42:45 バージョン

鬼一法眼

きいちほうげんまたはおにいちほうげん

『義経記』に登場する伝説の陰陽師。平安時代末期から鎌倉時代初期に一条堀川を拠点に活躍した陰陽師として、そして兵法家としても知られ、源義経が牛若丸だった頃に数々の兵法を叩き込んだという。

鬼一法眼とは、伝説上の人物である。


概説

源義経の伝説を記した軍記物語『義経記』巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」に登場する法師陰陽師(当時の公務員としての陰陽師ではない在野の陰陽師)。一条堀川を拠点とし、若き日の義経(牛若丸)が彼に弟子入りし、彼の娘と懇意になって唐国の一大兵法書『六韜』を盗み見て、頭に叩き込んだと伝わっている。


『義経記』での描写

『義経記』では、「文武二道の達者」と記され、生絹の直垂(ひたたれ、武士の公服)に緋威(ひおどし、紅い緒で小札板同士を繋ぎ合わせて甲冑として組み立てる構造)の腹巻(胴体部分をカバーする和式の)を着用し、金剛(藁や藺草等を編んだ草履)を履き、頭巾を耳の際の所まで被った姿で登場する。牛若丸と対峙した際の得物は大きな手鉾(薙刀に似た古い武器)だった。

『義経記』では敵対的なポジションで、兵法書を盗み見て逃げた牛若丸に対して激怒した彼は、湛海という弟子を刺客として差し向けて始末させようとする。湛海は5、6人の屈強な者に鎧を着せて共に行動したが返り討ちに遭い、湛海を皮切りに3人の首が跳ねられ、牛若丸によって鬼一法眼の目の前に投げられることになる。

懇ろになった娘が嘆くとよくない、と牛若丸が情けをかけた事で彼女の父である鬼一法眼は殺されずに済んだ。義経はそのまま去って行き、独り残された娘は彼が帰ってこない寂しさと悲しみで衰弱し死んでしまう。


『義経記』ではやられ役的ポジションながら、上記の通り立派な武具を持ち、配下を従える。異国の兵法書のほかにも、活版印刷が日本に持ち込まれ経本が普及する遙か以前、平安時代末期にあっては貴重なお経巻物、しかもかなりの分量のある『法華経』の経巻を所有する等、有力者であることが示されている。


地の文には「自然の事あらば、一方の大将にもなり給ふべき義経には仲を違ひ奉りぬ」ともあり、彼自身は特定の勢力につくというより状況に合わせて立ち位置を変え得る人物として描写されている。『義経記』以外のテキスト、作品では平家側に近いポジションの人物として扱われる傾向にある。


伝承

義経記での登場は牛若丸の僅かな間であったが、京都市左京区本町の鞍馬小学校の横に鬼一法眼の墓が存在する。さらに鞍馬寺にも鬼一法眼を祀る「鬼一法眼社」が建立されている。

少なくとも、伝説が成立した当時の人々は鬼一法眼が実在したと信じていたことが分かる。


中世の陰陽道において、『四十二箇条』『一巻書』『虎の巻』と呼ばれる兵法書が編まれ、その出自を語る部分において遣唐使吉備真備、鞍馬の仏僧祐海、源義経と共に鬼一法眼が言及されている。


先の通り、陰陽師であると共に兵法研究者でもあり、文武両道の出来人、剣豪だったという。

江戸中期の享保元年(1716年)刊『本朝武芸小伝』巻六「刀術」は鞍馬山の僧侶が鬼一法眼から刀術を学び、後に義経もその術を習ったという古伝を記している。さらに、鞍馬寺の僧侶8人が彼に伝授されたのが「京八流」であり、吉岡流(吉岡清十郎吉岡伝七郎の流派)も鬼一法眼の流派の末裔とする記述もあるが、後世に吉岡門下は断絶し文献が失われたため詳細は不明。

判官流伝書にはこの八人の僧侶の名前「祐頼・清尊・朝範・性尊・隆尊・光尊・性祐・了尊」が記されている。


江戸期の作品において

享保8年(1724)初演の浄瑠璃外題『義経勲功記』第三巻では鬼一のオリジンについての詳細が加えられている。伊予国(現在の愛媛県)の住人で、父は謙杖律師三代目吉岡憲清で、鬼一法眼の童名は鬼一丸という。保延年間(1135年から1141年)に都にのぼり、陰陽博士安倍泰長の門人となった。藤原頼長に召されて彼に仕えることになり、法師に任じられて「鬼一法師」となり、世間の人々から「鬼一法眼」と呼ばれるようになった。兵法を好む天性を持つ彼は、『六韜』と『三略』を納めた書庫のある鞍馬山に参籠した。

あるとき、断食し、多聞天(の像)の前に籠もっていると彼は霊夢を見た。虚空に浮かぶ尊い老僧が汝が願い望む事切なるものならその兵書を与えよう、と告げた。宿坊でこの話をしていると、寺の人の計らいで左大臣経由で頼長と話がつき、六韜三略の書を賜ることができた。蔵の深くにこの書を納めた彼は軍略の奥義を極め、富み栄えることになった。一条堀川の西に家を建て、その家を時の人は「鬼城城(おにしろじょう)」と号したという。


江戸時代の歌舞伎浄瑠璃に『鬼一法眼三略巻』(享保16年、1731年初演)があり、牛若丸の鬼一法眼への弟子入りから武蔵坊弁慶との出会いまでを描いた筋書きなっている。この作品には、鬼一法眼が牛若丸に対し、かつて鞍馬天狗として彼に軍法の奥義を教えたのは自分だと明かすシーンがある(歌舞伎演目案内)。作中では「幼きお目を眩ます鞍馬山の大天狗、僧正坊と名乗って相手になり、兵術を授け教へしを、真実の天狗と思給ひしが、是此仮面を被りし僧正坊、誠は鬼一法眼が仮に似せたる形なり」(三段目後半)と人間が仮面を被って天狗に変装していたというニュアンスである。その後、兵法はあくまで僧正坊から習った事にして自分の名は隠して欲しい、と鬼一が牛若丸に頼み、『義経記』等の記録と整合性をつける形になっている。

本作では鞍馬天狗と統合される形で友好的なキャラクターとなっている。上記の対峙ののち、鬼一法眼は牛若丸を娘婿として認め、その結果、三略巻の一つ「虎の巻」が牛若丸の手に渡ることになる。それは牛若丸が属する源氏の再興が鬼一法眼の願いでもあった事の表われでもあった。

「虎の巻」が自身の手を離れた後、鬼一は「鞍馬天狗」時代は源氏方だった自分が平家に鞍替えした事を悔いて自害する(文化デジタルライブラリー)。

自刃の際、源氏方への忠義を口にしながら、魂魄の「魂」の部分は冥土に行くが「魄」の部分は魔道に向かい「誠の天狗」となり、西の海や四海(四つの海、転じて世界のこと)においても影ながら弓矢の力を添えて守ると誓って息絶える。

鬼一法眼=鞍馬天狗説は『鬼一法眼三略巻』より以前の資料や作品では確認されていない。


絵本版『絵本義経勲功記』二巻によると、伊予国吉岡(愛媛県北西部東予地方にあった吉岡村か)出身で、子供の時は単に「鬼一」といい、天性武芸を好み諸書に通じ、あらゆる事への求道を惜しまなかった。そうして式部大輔・藤原盛憲の目にとまり、彼のもとで勤め仕えることになる。出世して吉岡法眼憲海と名乗るようになり、宇治殿の博士となった。勅によって武客の師の役職を任ぜられ、この時に朝廷から『六韜』と『三略』を預けられたという。彼の権勢は天下に轟くほどになり、賄賂を渡そうとする者が市場のように門前に集うほどだった。


後世の作品において

さらに現代では、藤木稟の『陰陽師鬼一法眼』(2000年)があり、幕府成立後を舞台に怨霊となった義経を鬼一法眼が迎え討つという大胆な筋書きが話題を呼んだ。

鬼一法眼を天狗そのものとして描写する作品もみられる。


創作作品では

鬼一法眼(ラヴヘブン)


Fate/GrandOrder』に登場するアサシンサーヴァント

鬼一法眼(Fate)


演:美輪明宏


関連タグ

陰陽師 剣豪

源義経 牛若丸 鞍馬山 鞍馬寺 鞍馬天狗 僧正坊

兵法 戦略 日本剣術 静形薙刀

犬神家の一族:鬼一法眼三略巻『菊畑』が作中で重要な役割を果たす。


外部リンク

国文学研究資料館蔵『【義経勲功記】』:鬼一法眼の出自が語られるのはコマ番号108あたり。

次世代デジタルライブラリー『義太夫百番 下』「鬼一法眼三略巻」

鬼一法眼三略巻(PDF)

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