現在の「埼玉西武ライオンズ」の源流のプロ野球球団。
1951年、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併し誕生。オーナー企業は西日本鉄道、本拠地は福岡県福岡市の平和台球場であった。
2008年に黄金時代、2011年に初期のユニフォームが復刻された。
球団史
西鉄の描いた九州からのプロ野球参戦、「神様仏様稲尾様」
戦前、西日本鉄道(以下西鉄)は大洋軍(後に西鉄軍と改称、1943年に解散。大洋ホエールズ、後の横浜DeNAベイスターズとは無関係)という球団を経営していたことがあり、戦後の1946年にそれを復活させようとするが頓挫、代わりに社会人野球チームを結成した。そしてこの社会人野球チームをもとにクリッパーズは結成された。また、西鉄は当初西日本新聞と共同で球団を設立しようとしたがそれができず、後に西日本新聞は単独で西日本パイレーツを結成している。
パ・リーグに所属していた西鉄に対し、セ・リーグで巨人戦などのドル箱を抱えていた西日本の方が人気・観客動員数で上回っていたが、西日本の上層部が経営の素人で経営悪化を招き、それを察知した西鉄側が早々に合併を提案。翌1951年からはチーム名を西鉄ライオンズに改称した。
合併初年度の1951年に巨人から三原脩を迎え、また合併元の西日本から主力選手を獲得。1954年に南海ホークスとの激しい争いの末初優勝を決めた。
1956年に初の日本一。1957年も連覇し、さらに1958年は日本シリーズで稲尾和久が4連投4連勝の獅子奮迅の活躍で日本一に導き、見事3連覇を達成した。
その後も大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸ら野武士軍団と呼ばれることになる名選手を擁した西鉄は常にAクラスを維持。1964年に一度Bクラスに転落した以外は安定した強さを誇った。
「黒い霧事件」による球団経営撤退
1967年が西鉄最後のAクラス入り。以降、成績が低迷する。さらに1969年に永易将之が八百長行為を行ったとして球界を永久追放処分にされる。この事件が発端となり「黒い霧事件」に発展。この騒動は球界全体を巻き込み、西鉄は当時の若きエースだった池永正明を含む3人が1970年シーズン中に球界を永久追放される(池永は後に復権)。このことで戦力と人気の低下に歯止めがかからなくなり、西鉄は1972年シーズンをもって球団経営から撤退。オフにチーム名を太平洋クラブライオンズと改称した。
順位の推移
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1951年 | 2位 | 三原脩 |
1952年 | 3位 | 三原脩 |
1953年 | 4位 | 三原脩 |
1954年 | 1位 | 三原脩 |
1955年 | 2位 | 三原脩 |
1956年 | 1位 | 三原脩 |
1957年 | 1位 | 三原脩 |
1958年 | 1位 | 三原脩 |
1959年 | 4位 | 三原脩 |
1960年 | 3位 | 川崎徳次 |
1961年 | 3位 | 川崎徳次 |
1962年 | 3位 | 中西太 |
1963年 | 1位 | 中西太 |
1964年 | 5位 | 中西太 |
1965年 | 3位 | 中西太 |
1966年 | 2位 | 中西太 |
1967年 | 2位 | 中西太 |
1968年 | 5位 | 中西太 |
1969年 | 5位 | 中西太 |
1970年 | 6位 | 稲尾和久 |
1971年 | 6位 | 稲尾和久 |
1972年 | 6位 | 稲尾和久 |
※1956年までは8球団、1957年は7球団で、1958年以降は6球団。
関連動画
西鉄ライオンズの歌
作詞:サトウハチロー
作曲:藤山一郎
西鉄ライオンズ初年度の1951年8月に発表され、1958年には、日本シリーズ3連覇を祝して当時の主力選手達がレコーディングを行い、2番では豊田泰光がソロで歌っている。
関連タグ
西鉄クリッパーズ⇒西鉄ライオンズ⇒太平洋クラブライオンズ⇒クラウンライターライオンズ⇒西武ライオンズ⇒埼玉西武ライオンズ
CHAGE - 福岡出身で、自身の楽曲「NとLの野球帽」はこの西鉄ライオンズと、自身の少年時代を歌ったもの。