概要
基本的人権に関るものなど社会制度としての差別と、文化的・慣習的な行動様式としての差別があるのは女性差別と同一であるが、男性の場合一般的に女性より優位にあるとされている事が多く、それによってかえって差別が認識されにくいという問題を抱えている。
真に男女平等を達成するためには、男性差別も女性に対する性差別主義と同じくらい真剣に受け止めなければならないだろう。
それが顕著に表れているのが性犯罪である。
男性が被害者となる事案は成人女性と未成年男性の組み合わせを中心に珍しいものではなく、ストーカーや同性からの犯行などを含めればさらに増大するが、長らく法律レベルで男性→女性の被害しか想定されてこなかった。
第二次世界大戦後のシベリア抑留において、混血児を作る人体実験としてソ連軍の女兵士が捕虜達を襲っていたという逸話があるが、それに対する反応の多くは武勇伝の一つと思うか、酷い時にはうらやまけしからんといったもので話が嚙み合わず、被害者達は口を噤んでいったという(ただし、この事案は襲った側の兵士も自発的行為では無かった可能性が高く、完全なる加害者とは考えにくいという点には留意する必要がある)。
また「痴漢」に対して「痴女」という言葉も存在してはいるが、専ら「露出狂」と同程度の意味で用いられていて「痴漢」ほど深刻なニュアンスは無く、それすらも平成に入った頃からはまともなニュース番組では使用されなくなった。
女性差別が少しずつながら解消に向かっている中、男性差別はかえって悪化しているという感覚さえ広まっているのが現状である。
余談
男性差別の解消に際しては、一般的にフェミニズムのような政治主導の権利拡大や性差自体の否定は望まれていない。
例えば21世紀になって「イクメン」という概念が提唱され広まったが、少なくない男性がこれを否定的に受け止めている。
彼らは女性と同じように育児がしたいのではなく、女性が育児に専念できるほど仕事ができる社会が続く事を望んでいるのである。そしてそれを「善き父親」として認めてもらいたいのである。
こうした傾向は、かえってフェミニズムが遠ざけがちな伝統や宗教と親和性を持つ。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は女性の司祭への就任を可能にするよう要求された際、「司祭より聖母マリアになりなさい」と拒絶し、マザー・テレサも「なぜ、男と女の素晴らしい違いを否定する人々がいるのか理解できません」とフェミニズム的な思想潮流に警鐘を鳴らしている。
それはもちろんキリスト教世界に限った話ではなく、仏教や神道の教義からも同様の結論は導き出されている。社会や文化を根底から作り替えてしまうのではなく、むしろ今一度それを見つめ直して正しい「男らしさ(そして「女らしさ」も)」を導き出すべき、という論理であり、そこに普遍性が生じているのである。
また、フェミニズムと親和性の高い学問の世界とは逆に距離を置きたがる傾向がある。
これは例えば次のような事例による。
東京大学教授でフェミニストの上野千鶴子は、著書の『女遊び(238ページ)』において
- 就職口の可能性があるとき、私自身は、できるだけ意図的に女性を推すようにしている。候補者が2人以上いて能力が等しければ、もちろん女性の方を、それどころかもし女性の方に若干問題があっても、やはり女性の方を推すことにしている。つまり、あからさまに男に逆差別を行使するようにしているのである。女性はずっと差別されつづけてきたから、少々の逆ハンディをつけなければ、男とはとうてい対等にはなれないからである。
などと述べ、女性差別解消のために男性が犠牲になる事を肯定している。
日本最高学府とされる場所ですら、このような思想を持った人間を責任ある役職に付け、事実上追認しているのである。不信感を抱くのも無理もない事だろう。
こうした事情により、目下の敵はフェミニズムであると考える論者は珍しくない。
昔の社会や文化に問題が無かったとは言わないが、それを更に改悪されるくらいなら現状維持の方がはるかにマシというわけである。