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リンゴ・スターの編集履歴

2022-10-09 21:21:21 バージョン

リンゴ・スター

りんごすたー

イギリス、リヴァプール出身のミュージシャン、俳優。ザ・ビートルズのドラマーである。

概説

1940年7月7日生まれ。本名はリチャード・スターキー(Richard Starkey)

1962年8月、ビートルズへ加入。デビュー直前の加入ではあったが、解散直前にはメンバーの人間関係に於いて潤滑油的な役割を果たしたとも言われる。左利きであるが、ドラムギターは右利き用の物を使っている。

芸名の「リンゴ・スター(Ringo Starr)」は、両手に指輪を多数はめていたことから「Rings→Ringo」となり、「Starkey」を縮めて「r」を一つ足したものである。

70年代後半以降は長い低迷期間に陥ってしまうが、90年代に入ると復調。大ヒットを飛ばす事こそなくなるが、マイペースに、そして精力的に活動を続けている。

来歴

誕生からビートルズ加入まで

3歳の時に両親離婚し、事実上母子家庭に育つ。幼少期から少年期にかけては病弱で、6歳の頃には虫垂炎によって昏睡状態に陥ったり、13歳の頃には結核に罹患し2年間の療養所生活を送ったりするなどして、満足に教育を受ける事が出来なかった。この療養所生活期間中に「病院バンド」で戸棚を打楽器のように演奏したことから、ドラミングに興味を抱くようになったそうだ。

1959年3月にはリヴァプールバンド、「ロリー・ストーム&ハリケーンズ」のメンバーとしてステージに立つようになった。この時からリンゴ・スターの芸名を名乗るようになる。ハリケーンズ加入後には収入が安定し始め、ジョージ・ハリスンの証言によれば、ビートルズと知り合った頃には、リンゴは既に高級車を乗り回していたと言う。

ロリー・ストーム&ハリケーンズは、1960年西ドイツ(当時)のハンブルクで巡業をしており、当時は格下のバンドであったビートルズと交代で出演していた。この頃にリンゴはビートルズと面識を持つようになったばかりか、当時のビートルズのドラマーであったピート・ベストの不在時に代役でドラムを叩き、また、ジョン・レノンポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンとレコーディングもしていたことが分かっている。

1962年8月にビートルズから要請を受け、ドラマーのピート・ベストと入れ替わる形で加入。

ビートルズ時代

デビューシングル”Love Me Do”について、ドラムを叩いた自身のテイクが、すぐに後のテイクに差し替えられるという憂き目を見る。

スタジオ・ミュージシャンをドラムに起用した、プロデューサーのジョージ・マーティン(Sir George Martin, 1926-2016)はこの件には「単にリンゴがどういう人なのかよく知らなかったし、いかなるリスクをとるつもりもなかった」と述べている。差し替え前の"Love Me Do"の演奏は、発売当時の混乱を避けるために早々と破棄されたマスター・テープに代わり、シングル・レコード盤から起こした音源を『パスト・マスターズ』(Past Masters)で聴くことができる。

1964年にはワールド・ツアー中に扁桃腺炎にかかり、代役をたてて入院

1965年にはモーリン・コックスと結婚し、同年9月に長男ザック・スターキーが誕生した。同年MBE勲章を授与される。

ビートルズのメンバーの中では最も穏やかで人格者であったとされるリンゴだが、アルバムThe Beatles(通称『ホワイトアルバム』)のレコーディング期間中の1968年8月22日に、自分の出番が他の3人と比較的に少なくなっていたことや、ポールの態度に激怒したことにより、グループを脱退してしまう。結局9月3日には復帰したが、不在期間中にレコーディングされた曲ではポールがドラムを叩いている。

解散直前の1970年3月にはスタンダード・ナンバーをカバーしたソロアルバム『センチメンタル・ジャーニー』を発売した。

ビートルズに関するエピソード

  • リンゴにも「イエロー・サブマリン」("Yellow Submarine”)を筆頭に、十数曲リードヴォーカルを務める楽曲があった。スタジオ・アルバムでは一部を除き、少なくとも1曲はリンゴのヴォーカル曲が収録されていた。また、リンゴを含めたメンバーがユニゾンで歌う部分では、彼の声が一番前に出ることもある。
  • ビートルズの公式発表曲中、リンゴが本名のリチャード・スターキー名義で作曲者としてクレジットされているのは5曲だけで、リンゴの単独作詞作曲扱いになっているのは「ドント・パス・ミー・バイ」("Don’t Pass Me by”)と「オクトパス・ガーデン」(“Octopus’s Garden”)のみ。後者に関してはジョージがかなりの部分を手伝っている。
  • リンゴはドラムソロを好まなかったが、唯一『アビイ・ロード』(Abbey Road)収録の「ジ・エンド」(“The End”)に、ドラムソロがある。
  • 独特の言語感覚を持つ、というより、ちょっとした言い間違いをする事があったが、ジョンがそれを気に入り(Ringo-ism=リンゴ語と呼んでいた)、楽曲のタイトルに採用した事がある。例として”A Hard Day’s Night” “Eight Days a Week” “Tomorrow Never Knows”。
  • インタビュアーから「ベートーヴェンについてどう思うか」と訊かれて「いいね、特にが素晴らしい」とジョークで答えた事がある。
  • 人気投票では3人に敵わないけど、『2番目に好きなメンバー』を選ぶ投票なら、きっと1番になれる」とのコメントを残している。

ビートルズ解散後

1970年代前半

1970年代前半はリンゴのソロ活動における絶頂期であり、1970年12月には『カントリー・アルバム』(原題:Beaucoups of Blues)をリリースした。

翌71年にはリンゴ自身が作詞作曲し、ジョージ・ハリスンがプロデュースしたシングル「明日への願い」("It Don’t Come Easy”)が全英・全米ともに4位を記録するヒットを飛ばすと、1973年にはアルバム『リンゴ』(Ringo)が全英7位、全米2位を記録し、先行シングル「想い出のフォトグラフ」(“Photograph”:ジョージ・ハリスンとの共作)、リカットされた「ユア・シックスティーン」(“You’re Sixteen”)はいずれも全米1位(イギリスではそれぞれ8位と4位)の大ヒットとなった。特にアルバム『リンゴ』は、解散後初めて元ビートルズのメンバー全員が参加した(但し、全員が共演した曲はない)ことで話題を呼んだ。ジョン・レノンが提供した”I'm the Greatest”では、ポールを除く3人が共演していた。1980年にジョンが死去したため、『リンゴ』が、ビートルズの元メンバー全員が参加した最初で最後の元メンバーのソロアルバムになった。

1974年には、ジョン・レノンやエルトン・ジョンから楽曲提供を受けた『グッドナイト・ウィーン』(Goodnight Vienna)も大ヒットとなった。

一方で、この時期にはジョンやジョージのソロ活動にも積極的に協力していた。

1970年代後半から80年代

1975年不倫行為を重ねていたモーリンと離婚1976年、アップル・レコードを離れ、アトランティック・レコードに移籍。 1977年にリリースした『ウィングス~リンゴⅣ』(Ringo the 4th)が全米100位圏内に到達せずに終わったり、病気で危篤に陥ったり、自宅が火事で全焼したりと散々であった。

モーリンと離婚した後、自身が主演した1981年公開の『おかしなおかしな石器人』(Caveman)で共演した、女優バーバラ・バックと交際を始め、同年には再婚する。時期は前後するが、1980年12月8日にジョン・レノンが射殺される衝撃的な事件が起きた時に真っ先にオノ・ヨーコを見舞ったのがリンゴとバーバラだった。

しかし、本業ではますます不振を極め、ジョージ・ハリスンやポール・マッカートニーとチャリティ・コンサートで共演する事はあっても、一時はアルバムが本国イギリスアメリカ合衆国で発売されないほどであった。1980年代後半には夫妻でアルコール依存症の治療を受けていた。

1989年以降

アルコール依存の治療を受け、1989年に第一線に復帰する。ビートルズのセッションに参加したビリー・プレストン、ザ・バンドのレヴォン・ヘルム、イーグルスのジョー・ウォルッシュという面々で、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドを結成。ワールド・ツアーに乗り出す。不定期ながら大物ミュージシャンを集めて何度も結成されており、リンゴの長男ザック・スターキーがメンバーに加わったこともある。

1989年の秋には来日公演も実施。翌90年にはポールが、91年にはジョージが来日公演をそれぞれ実現させ、日本のビートルズファンを喜ばせた。1995年、2013年、2016年にも来日公演を実施している。

1992年には久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』(Time Takes Time)を発表。1994年から95年にかけては、ビートルズ・アンソロジー・プロジェクトに参加し、ジョンが遺したデモ・テープにポール、ジョージと共に録音を加えて「ビートルズの新曲」を発表した。ただ、1994年には先妻モーリンが、ザック・スターキーからの骨髄移植などの治療もむなしく、白血病の合併症のため48歳の若さで亡くなり、リンゴは大きなショックを受けた。

1996年、日本の宝酒造「すりおろしりんご」のCMに出演し、商品のキャッチコピーである「りんごすった~」とダジャレを言う演出が話題を集めた。

1998年、マーク・ハドソンとの共同プロデュースで、アルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(Vertical Man)をリリース。マッカートニーとハリスンも久々に参加した。2003年に『リンゴ・ラマ』(Ringo Rama)を発表してからは、2~3年に1作のペースでニュー・アルバムをリリースしている。2010年の『ワイ・ノット』(Y Not)にはポールがゲスト参加。2012年にリリースされた『リンゴ 2012』(Ringo 2012)は、初の単独セルフプロデュースのアルバムになった。

2010年頃からは、リンゴのコンサートにポールがサプライズで登場するなど、ステージ上での共演の機会もある。

2015年にはアルバム『Postcards from Paradise』を、2017年にはアルバム『Give More Love』をリリースした。後者ではポール・マッカートニーが参加している。

2018年3月20日に、バッキンガム宮殿に於いて、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子よりナイトの爵位を授与された。


ドラマーとして

手数や技巧の面で、有名な後年の者には及ばず、本人にも技巧に長けていない自覚があるが、引き出しの多彩さや鋭い感性から、評価は寧ろ高い。

スティーヴ・スミスは「リンゴが人気になったことで、ドラマーが曲作りに参加する者としても注目されるようになった」という趣旨の発言をし、リンゴと共演したこともあるフィル・コリンズも「(ビートルズの)『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』("A Day in the Life”)のドラムなんて、どんなに上手いドラマーでも真似出来るものではない」と述べている。

ジョン・レノンやビートルズのプロデューサーであったジョージ・マーティンも、彼の才能やバンドのサウンド作りにおけるリンゴの貢献を絶賛するコメントを残している。また、ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンによれば、リンゴは他の3人に比べてレコーディングにおける演奏ミスによる中断を引き起こした回数が非常に少なかったという。

ローリング・ストーン誌が選ぶ最も偉大なドラマー」の第5位に選ばれている。

俳優・声優として

演技才能を生かして数々の映画にも出演している。

1964年の映画A Hard Day’s Nightと、HELP!では、ストーリーの中心的存在として活躍した。

ビートルズ時代には単独で『キャンディ』(Candy,1968年)と『マジック・クリスチャン』(The Magic Christian, 1969年)に出演した。前者は、いわばゲスト出演に近い立場で、公開当時は「もどしたいときはこの映画を」とまでに酷評されたが、後者は映画オリジナルキャラクターではあるが、ピーター・セラーズに次ぐ準主演として起用された。

その後は80年代半ばまで様々な映画に出演していた。『きかんしゃトーマス』(Thomas the Tank Engine and Friends)においてナレーターを務め、関連作品の映画にも出演している。

関連項目

ビートルズ ジョン・レノン ポール・マッカートニー ジョージ・ハリスン

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