甲相駿三国同盟
こうそんすんさんごくどうめい
甲相駿三国同盟とは、戦国時代に武田家、北条家、今川家の三勢力の間に結ばれた和平協定のこと。名前はそれぞれの本拠地である甲斐(山梨)・相模(神奈川)・駿河(静岡)の頭文字から。甲・相・駿の順番は文献によって異なる。それぞれの当主が会合したと伝わる場所に因み、『善徳寺の会盟』とも言われる。
概要
参加したのは武田晴信、北条氏康、今川義元の三人。この三家は領地が隣接していて関係が深く、それぞれの父の武田信虎、北条氏綱、今川氏親の代から対立と協力を繰り返していた。
しかし息子の代になって状況が変わり始める。
- 武田家は、甲斐を統一したことで隣国・信濃への侵攻の本格化と、それにともない信濃の反武田勢力を支援する越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)との抗争の激化が起き、そちらに専念する必要があった。
- 北条家は、元々関東統一のために東への領土拡大を目指していたのに加え、関東の旧支配層である扇谷上杉家(謙信と関係ない)・山内上杉家(謙信に上杉姓を譲った家)・古河公方やその配下の諸大名との戦いを有利に進めるため、それらを支持していた武田・今川両家を味方に引き入れておきたかった。
- 今川家は、この時自領の東に位置する北条家とは敵対していたが、西に位置する尾張の織田家とも大規模な軍の衝突が起きており、東西に敵を抱えるのは好ましくなかった。
こうして三者の利害が一致し、今川家の太原雪斎を中心に同盟締結となった。ちなみにこの同盟は、武田家には太平洋に進出できない、北条家には上洛の道が塞がれたというデメリットがあり、今川家に一番有利だったようである。
関係を強固にするために義元の娘・嶺松院が 信玄の嫡男・義信に、信玄の娘・黄梅院が 氏康の嫡男・氏政に、氏康の娘・早川殿が義元の嫡男氏真にそれぞれ嫁ぐことで、1554年に同盟が締結された。この時の結婚は、政略結婚ながらどれも良好な夫婦仲だったようだ。
なおこの三組のうち氏真と早川殿の夫婦は時流の流れの中で離別することもなく生涯添い遂げ、今川家は江戸幕府下で高家として復権を果たしている。
崩壊
一見強力だったこの同盟も、1560年に義元が桶狭間で織田信長に討たれると状況が一変する。義元の死によって三河の松平元康(のちの徳川家康)が独立し、遠江でも大きな混乱が起こったのである。これを見た信玄は、上杉家との戦いが安定したこともあり、外交方針を転換して今川領への侵攻を画策。反対して謀反を企てた義信を廃嫡(義信は後に病死もしくは自害)し、嶺松院を今川家に送り返した。そして北条家や徳川家(松平から改名)に今川領の分割を持ちかけた。徳川家康は了承したが、氏康はこの要請を拒否。こうして武田と北条・今川の関係は断絶され、ここに甲相駿三国同盟は崩壊する。