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鎖国の編集履歴

2012-07-19 22:56:03 バージョン

鎖国

さこく

江戸時代の日本の外交政策。

概要

江戸時代において日本人外国への渡航を禁止し、海外との交流・交易を制限した外交政策。


なお、同時代の清朝朝鮮王朝も同様の政策をとっていたが、江戸幕府は交流・交易の一部を地方政権(松前藩・薩摩藩・対馬府中藩)に委託したのが特徴的であった。


「鎖国」という語は17世紀末に来日したドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペルが記した本が死後に『日本誌』と英訳出版され、その中に「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するに極めて当然なる理」という論文が書かれていた。それが19世紀に日本で和訳されたが、翻訳家によってあまりに長い題名を「鎖国」と縮められた。


歴史

南蛮貿易が盛んだった戦国安土桃山時代徳川家康によって天下泰平の時代に移った。江戸初期では欧州中国だけでなく、東南アジアとの朱印船貿易が盛んにされ、アジアに日本人街がいくつもできた

しかし、秀忠家光の頃に欧州各国(西)との交流に制限が次々に課せられ、ついに17世紀後半にいわゆる「鎖国体制」が完成した。海外に出国した日本人も帰国を許されなかった。

その中で、幕府は国家間の国交はせずとも、限定的に海外との交流を開き、貿易をしていた。これを「四口」と呼ぶ。


幕府の目を盗んで勝手に海外貿易による密輸で利益を得る藩や商人もおり、「抜け荷」と呼ばれた。

朝鮮と琉球からは通信使が定期的に来日し、親書の交換がされた。幕府は出島のオランダ商館に海外事情を記した報告書を提出させ、海外事情をある程度把握した。


庶民の間でも海外からの輸入品は「舶来品」と呼ばれ、海外では陶磁器や海産物、刀剣などがヨーロッパに輸出され、浮世絵は印象派画家達に大きな影響を与えた。


しかし、19世紀になって日本近海に英・の船舶が相次いで出没し、鎖国体制をやめて交流を求める「開国」を迫った。当初は頑なに拒んだ幕府だったが、次第に軟化の姿勢に変え、ペリー率いる黒船の来航、さらにハリスとの条約締結で、欧州各国も続いて条約を結び、鎖国は終わった。これによって帝国主義吹き荒れる世界情勢に日本は巻き込まれ、幕末の時代が到来した。

目的

幕府は鎖国による貿易統制で、他の藩や商人の経済力を抑えて幕府に対抗できる力を作らせないようにした。


そして、キリスト教禁止を徹底させるという目的があった。戦国時代に広まったキリスト教は、仏教神道と激しく衝突し、日本人の独立を危うくするものとなっていた。実際にキリシタン大名領では、神社や寺院を破壊し、日本人を海外に奴隷として売るなどの行為が行われ、神仏を崇敬する諸大名を憤激させ、豊臣秀吉にキリスト教禁止を決意させることとなる。


家康はキリスト教を厳禁しつつ交易は推進する姿勢をとったものの、家光の代に起った島原の乱は、キリスト教が幕府権力を脅かす危険性を改めて認識させるものとなった。この乱を期に、新たな布教活動が今後一切行われることのないよう、外国人が日本に入ることを原則禁じ、日本人が海外に渡航することを一切禁止する鎖国に至った。


評価

鎖国に対する評価は分かれている。明治以降は日本が西洋に遅れをとった原因になったとする考えが主流であったが、海外との交流を幕府が統制したことで、日本独自の日本文化や産業が成熟し、さらに欧州からの侵略を防いだという肯定的な評価も見直されている。


近年は、江戸幕府の鎖国は清国・朝鮮の海禁策と基本的には同じであり、アジアの植民地化を進めていた西洋文明から自国を守るためにとられた、東アジア共通の外交政策であったという見方が強調されている。


いずれにしろ、従来の「海外と交流を禁じた『鎖国』」という見方はすでに古い認識は広まっている。


余談

鎖国を「国家規模のひきこもり」という冗談があるが、自発的に外に出ず、人の出入りを拒み、情報や物品のみを往来させる状態は、あながちひきこもりと似ていなくもない。


関連タグ

江戸時代 江戸幕府 ひきこもり

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