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安国寺恵瓊の編集履歴

2024-09-27 10:43:59 バージョン

安国寺恵瓊

あんこくじえけい

安国寺恵瓊とは、中国地方のの僧侶・戦国武将。安芸毛利氏に外交僧として仕え、交渉相手の一人であった豊臣秀吉が天下を取ると彼に取り立てられた。(1536年/1538年-1600年)

概要

生年:天文6年(1537年)/同8年(1539年)-慶長5年10月1日(1600年11月6日)

別名:竹若丸(幼名)、瑤甫(号)など

宗派:臨済宗東福寺派


戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶戦国武将の一人。

安芸の毛利氏に外交僧として仕え、長宗我部氏の外交僧でもある滝本寺非有(谷忠澄の弟)と共に「一対坊主」と称された。

後に信任を得た豊臣秀吉とのパイプ役を期待されてか、諸大名からは多くの寄進を受けていたため大きな経済力を有し、大名もしくはそれに準じる勢威を誇った。また、調略面で活躍したため、一般に腹黒い参謀僧というイメージを持たれがちであり、それゆえネット上では「暗黒寺AK」「暗黒JK」などと呼ばれる事もある。


名乗りに用いた「安国寺」は、自身が住持した安芸安国寺(不動院)に由来したもので、正式な禅僧としての名は「瑶甫恵瓊(ようほえけい)」という。また前出の安芸安国寺以外にも、自身が若年期を過ごした東福寺や南禅寺など複数の寺の住持になっている他、建仁寺、方丈寺、霊仙寺といった寺院の再興にも力を注いでいる。


生涯

天文6年(1537年)、もしくは天文8年(1539年)に生を受ける。幼名は「竹若丸」。父親については武田信重(光広)、もしくは信重の父である伴繁清(武田元繁の弟、もしくは息子と伝わる)のいずれかとされるが、少なくとも出自が安芸武田氏である事は確定を見ている。

鎌倉期からの名門として、一時は安芸の分郡守護を務めていた安芸武田氏も、15世紀後半に入ると周防・長門の大内氏との対立と屈服、それに毛利・吉川・高橋など安芸国内の有力国人らによる一揆の成立、さらには毛利・吉川連合軍との戦いで武田元繁が討たれる(有田中井手の戦い)などもあって勢力を大幅に減衰させており、台頭著しかった出雲の尼子氏の力を頼る事で辛うじて存立しているという有様であった。

そのような状況も、天文10年(1541年)に尼子詮久らによる吉田郡山城攻めが失敗に終わった事で終わりを迎える事となる。郡山城城主・毛利元就は尼子軍の敗退を受け、尼子方であった安芸武田氏の本拠・佐東銀山城に反攻をしかけ、これにより安芸武田氏も滅亡の時を迎えた。前出の武田信重、それに伴繁清もこの時討死にする中、未だ3歳であった竹若丸は家臣の計らいで脱出し、安芸安国寺に入れられ出家する。


その後、京都東福寺の竺雲恵心の弟子となっていた竹若丸こと恵瓊であったが、師である恵心が毛利隆元と親交があったことが縁となり、恵瓊もまた早い時期から毛利氏と関係を持ち、少なくとも永禄年間の末期より外交僧として活躍。大友氏との戦における諸豪族との折衝、それに室町幕府を介しての大友・浦上との和議の斡旋などに尽力した。

天正年間に入ると、織田信長との対立から京都を追われた幕府将軍・足利義昭の処遇を巡り、織田側の使者であった羽柴秀吉らと折衝を重ねる事となる。この時、義昭の帰京に向けての交渉が不首尾に終わった事を受け、恵瓊は秀吉に対して義昭が西国へ下ってくる事のないよう要望しており、さらに義昭が毛利領の鞆の浦に落ち延びてきた後も、織田との関係を重視し、毛利家中の説得に務めたという。

秀吉とはその後の中国地方での戦においても、毛利側の交渉窓口として度々折衝を重ねており、本能寺の変の直後に秀吉が講和を持ちかけてきた際にもその取りまとめを担い、中国大返しを成功させる形で恩を売る格好となった。この事や、変後の正式な臣従に向けた折衝などで秀吉からの信任を得た恵瓊は、豊臣政権による四国征伐までの間に秀吉の側近として取り立てられたようで、同征伐後には伊予国和気郡に2万3,000石の知行を与えられ、さらに九州征伐後は6万石に加増された。この事から、以降の恵瓊を毛利氏の外交僧としてではなく、豊臣政権傘下の独立した大名と見る向きもあるが、これについては異論も呈されており、現在に至るまで結論は出ていない。


ともあれ、その後も肥後国人一揆や朝鮮出兵において、作戦参謀や現地情勢の報告など多岐にわたる活動を行っていた恵瓊であったが、慶長年間に入って毛利家中の重鎮であった小早川隆景が逝去すると、豊臣政権下における毛利氏の立場が揺らぐ事を懸念、また隆景と並んで毛利家中の重鎮であった吉川広家との間での見解の相違もあり、秀吉薨去後の慶長5年(1600年)に石田三成ら奉行衆が決起すると、かねてから懇意であった三成と通じて毛利本家を西軍に与させ、同時に主君・毛利輝元を総大将として担ぎ出すことに成功する。

が、これは先の隆景逝去後の遺領の扱いを巡り、三成に対する反感を抱いていた広家と明確に対立する事も意味しており、結果として広家は主家に背く形で徳川家康に内通。迎えた9月15日の本戦では、毛利秀元と共に南宮山に3700の軍勢で陣取りながらも、麓に陣を構えた広家勢に参戦を阻まれ、そのまま西軍の敗北を傍観する格好となった。

敗戦の後、恵瓊は広家に諭され一旦は逃亡、京都の六条の辺りに潜伏していたが最終的に捕縛され、10月1日に西軍の首脳格として石田三成・小西行長と共に六条河原で斬首・晒し首に処せられた。享年62もしくは64。


創作作品における恵瓊

鬼武者』シリーズ

CV:石住昭彦(2)、玄田哲章(Soul)

味方キャラクターの一人。通称・エケイ。

でっぷりとした体格の巨漢で、仏門の身でありながら酒と女と食べ物に目が無い。

端的で喧嘩っ早い性格だが、快活で人懐っこいところもあり不思議と憎めない性格。対照的な性格のマゴイチとはソリが合わずよく喧嘩をしているが、『タクティクス』ではなんやかんやで共闘する機会の多い凸凹コンビとなっている。


専用武器は槍。「宝蔵院流槍術」の使い手を号する。

初期装備の月形十字槍は従来の十字槍とは異なる笹穂の槍身となっている(代わりに石突の部分に十字の装飾が施されている)。

他にも、飛び道具として札を使用したり「南無三」の掛け声とともに結界を張ったりと、僧侶らしい技も使用する。


采配のゆくえ

まさに俺得

主人公・石田三成の属する西軍の武将で、身長100cmという小柄な体格の僧侶。

仏に仕える身であるため争い事を好まないが、必要とあれば「一蓮托生」の精神で協力を惜しまない。


信長の忍び』・『軍師黒田官兵衛伝

初登場は軍師黒田官兵衛伝。京を追放された将軍足利義昭の世話役も務める。信長の没落と秀吉の台頭を予言しており、自らを「暗黒の預言者」と称している。

信長の忍びでは362話で登場。情報収集の際に馬揃えに訪れ、信長の没落をつぶやいたところを千鳥に聞かれてしまう。その後は尋問されるものの解放され、その後すぐに助蔵に千鳥と結ばれる未来を教え彼を喜ばせたが、その後の2人がどんな運命が待っているのかまでは分からないと述べ立ち去った。


100万人の戦国無双


戦国武将姫MURAMASA

【戦国武将姫MURAMASA】安国寺恵瓊

まさに暗黒JK


大河ドラマでの演者



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