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アルテミオ・リカルテ

あるてみおりかるて

アルテミオ・リカルテは、米西・米比戦争におけるフィリピン革命軍の将軍である。『フィリピン陸軍の父』とも称される。
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概要編集

米西戦争及び米比戦争において活躍した、フィリピン独立派によるフィリピン革命軍の将軍であり、参謀総長を務めていた。

フィリピン陸軍の父』とも称されており、独立派にとっては英雄的な存在である。


独立革命軍時代編集

アメリカスペインとの戦争(米西戦争)に勝利するために、フィリピンの独立派勢力に独立を約束する見返りとして協力を仰ぎ、元々1896年から始まったフィリピン独立革命により、革命軍を率いてスペイン軍と戦っていたリカルテもこれに参戦する。


それもあってアメリカ軍とフィリピン革命軍側の勝利に終わり、リカルテも故郷の完全な独立に繋がると当初は喜んでいたが、アメリカ側は共同で戦ったという意識が無く、フィリピン人たちを凱旋パレードに参加させず、独立派との約束を反故にしてフィリピンを再占領し植民地経営に乗り出した。


当然これにリカルテをはじめ独立派は反発し、これにより対米戦争が勃発したが、この際にアメリカは8万人の大軍を送り込み独立派を弾圧し、数十万人のフィリピン人を虐殺している。

リカルテは1900年に防衛線を突破してマニラに侵攻しようとしたが捕らえられ、アメリカに対し忠誠を誓うよう強要されたが、彼はこれを断固として拒否し、それにより国外追放となった。


日本へ亡命編集

追放されてしまった後、当時イギリス領であった香港に身を隠し、密かに革命評議会を設立して再起を図ろうとするも、1914年に欧州戦争(後の第一次世界大戦)が始まると、イギリスがヨーロッパ戦線に送ったインド人の奴隷兵士に反抗する者が多くおり、その風潮を足がかりに独立運動の動きが起こったために、香港でも取り締まりが厳しくなったことから脱出する。


その後に彼が頼ったのが日本であり、1915年に妻のアゲタと共に日本へ亡命し、日本政府は二人を匿うために非公式に亡命を認め、アメリカ政府がリカルテの送還を要求してきた際にはこれを断っている。


日本についてリカルテは、日露戦争における勝利に伴って

私は日本を同胞として評価している。日本は東洋の尊厳をロシアに勝利したことで高めた唯一の国である。日本こそ我々の独立闘争に援助を差し伸べることのできる国である。

と語っている。


その後は、自分と同様に日本に亡命していたインド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、彼の支援者だった内田良平、後の総理大臣である犬養毅、彼の盟友である頭山満ら多くの助力により、住居を得て横浜で語学教師として働きながら、母国フィリピンの独立を諦めず再起の時を待った。


祖国への帰還編集

それから年月の流れた1941年、第二次世界大戦において日本軍がフィリピン攻略に乗り出すと、リカルテは秘密裏にルソン島へ上陸し、約40年ぶりに生まれ育った故郷の土を踏んだ。

この情報はフィリピン全土にまで広がり、現地のフィリピン人たちは祖国独立のために戦い続けた、英雄リカルテ将軍の帰国に歓喜に湧いたという。


大戦末期に日本の敗色が濃厚となり、日本政府からフィリピンからの脱出を薦めらるが、

国民が現実的な苦悩の中にいるこの重要な時期に、私は日本に亡命はできない

私はフィリピン人です。米比戦争で降伏していない、唯一の将軍です。わしは祖国に踏みとどまって、最後の一人になるまで、アメリカと戦う覚悟です

と彼は語って拒絶し、最後の最後までアメリカに対する忠誠は一切示すことはなく、1945年7月にイフガオ州の山中で病により78歳で亡くなった。


死の前日において、リカルテは自分を看護してくれていた、日本陸軍山下奉文総司令官の副官である太田謙四郎に、

孫娘のビスルミノを日本へ留学させること、自分の墓をフィリピンと第二の故郷日本に建ててもらうこと

と言い残し、この遺言により彼の遺体の一部は日本へと運ばれて埋葬された。


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